ドイツ海軍潜水艦「U-505」に関する展示である。奥には「U-505」の実物が展示されている。(←)
展示室までは、第二次世界大戦中のドイツ海軍潜水艦、所謂「Uボート」に関する展示が成されている。 初めて潜水艦が大規模に使用されたのは、大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦に於いてであった。ドイツ海軍の「Uボート」は連合国商船に対して無差別攻撃を開始、海の狼として恐れられた。
撃沈された商船の乗員が漂流している様子。人形の表情になんとなくやる気がない。(→)
昭和14年(1939年)9月1日、ヨーロッパに於ける第二次世界大戦が勃発した。 ドイツ海軍は再び潜水艦「Uボート」を大量に投入して連合国商船を攻撃、通商破壊戦を開始した。「Uボート」は、イギリス沿岸はもとより、北は北極海、西はアフリカ沿岸まで、所狭しと暴れ周った。(←) 昭和15年(1940年)までに撃沈された連合国商船は 合計114隻(42万トン)に上り、「Uボート」は再び海の狼として大西洋を席捲するかにみえた。(→)
これに対し、連合軍は多数の護衛艦艇と商船による護送船団(コンボイ)を編成して対抗した。
更に、昭和18年(1943年)6月以降、護衛空母と護衛駆逐艦で編成された対潜群(Hunter Killer Task Group)による「Uボート」狩りを開始、大西洋を舞台に、ドイツ海軍「Uボート」と連合軍艦艇との熾烈な戦いが始まったのである。(←) 米海軍駆逐艦とドイツ海軍潜水艦との戦いを描いた映画「眼下の敵」(1957年:アメリカ・西ドイツ)では、双方の息詰まる攻防が描かれている。 連合軍は、昭和19年(1944年)以降、対潜爆雷「ヘッジホッグ」や、新型の水中音波探知機(ソナー)を次々と投入、当初は優勢を保っていた「Uボート」も、次第に追い詰められていく。(→)
そして、昭和19年(1944年)6月4日、大西洋上で行動中の米海軍第22.3対潜群(司令官:ダニエル・V・ギャラリー大佐)は、モロッコ沖合い約240kmの地点でで潜水艦を探知、直ちに追跡を開始した。(←) この時発見された潜水艦は、昭和19年(1944年)5月にロリアン軍港を出航、通商破壊戦を行っていたドイツ海軍第2潜水隊群の潜水艦「U-505」(潜水艦長:ハラルト・ランゲ中尉・乗員59名)であった。(→)
米軍護衛駆逐艦からは対潜哨戒機が発艦、5隻の米軍護衛駆逐艦は水中音波探知機(ソナー)で位置を特定しつつ間合いを詰めていく。
やがて、「U-505」に対して米軍部隊の攻撃が開始され、爆雷が次々と投射された。海面下の「U-505」は必死に回避運動を取るが、至近で爆発する爆雷によって艦体に大きな被害を受けた。 最早これまでと悟ったランゲ潜水艦長は浮上を決意、米軍艦艇の只中に浮上した。これに対し米軍の護衛駆逐艦と対潜哨戒機は射撃を開始、ここに至って命運尽きた「U-505」は降伏した。 その後、「U-505」の艦体は拿捕され、乗員は捕虜となった。また、米海軍は「U-505」の艦内から暗号関連の機密書類を押収し、この事実を秘匿する為に「U-505」の拿捕は機密とされた。
順路に沿って進むと、大きな展示室の中に「U-505」が展示されている。(←) 「U-505」は、昭和16年(1941年)8月26日、IXC型潜水艦としてドイツのドイチェ造船所で竣工した。排水量1120トン(水上)、最高速度は水上18.3ノット・水中7.3ノット、魚雷発射管6門を装備し、22発の魚雷を搭載していた。乗組員は約50名であった。
「U-505」の艦内は有料(大人6ドル)のツアーで入ることが出来る。ツアーでは係員が艦内の説明や当時の戦闘の様子を熱演してくれる。尚、艦内は撮影禁止である。(→)
船首にある前部魚雷発射管4門である。発射直後の魚雷を模した展示が成されている。(←)
船尾にある後部魚雷発射管2門である。右舷側の発射管は扉が開いている。下には左右2基の舵とスクリューが見える。(→)
拿捕された「U-505」は、ポーツマス海軍工廠に置かれていたが、昭和29年(1954年)9月、博物館に寄贈された。当初は屋外展示であったが、風雨による痛みが激しく、平成16年(2004年)に大規模なレストア(修復)を受け、屋内の展示室に移動された。
「U-505」の周囲には、潜水艦の仕組みを説明した展示や、搭載されていた兵器や装備品が展示されている。これは高射機関砲である。(←)
第二次世界大戦中にドイツ軍が開発した「エニグマ暗号機」である。文章を入力するとランダムな文字に変換され、それを受けた側が暗号機に入力すると元の文章に翻訳された。変換の組み合わせは天文学的数になる為、絶対に解読不可能と言われた暗号機である。(→) 「エニグマ暗号機」は、連合軍が血眼になって探し回った事でも知られる。
「U-505」を拿捕した第22.3対潜群(Hunter Killer Task Group 22.3)に関する展示。(←) 米海軍護衛空母「ガダルカナル」、米海軍第8混成飛行隊(VC-8)、米海軍護衛駆逐艦「ピルスベリー」「チャトレイン」「ポープ」「ジェンクス」「フラハーティ」で編成されていた。当時の全乗組員の氏名が書かれている。
「U-505」は、昭和29年(1954年)6月26日、セントローレンス川を遡ってこの博物館に運ばれ、展示された。平成16年(2004年)4月には現在の展示室が完成した。展示室の出口付近には現在の展示室が完成するまでの様子と、「U-505」の移動の様子を見ることが出来る。(→)
展示内容詳細に戻る
「スーパーマリン スピットファイア Mk.I」である。(←) 昭和13年(1938年)に登場したイギリス空軍(Royal Air Force)の戦闘機で、エンジンはロールスロイス製液冷V型12気筒の「マーリン」(離翔1030馬力)を装備、イギリス空軍初となる全金属製の単発単葉戦闘機であった。展示機は製造番号P9306号機で、塗装も含めて当時の状態を保っている。
正面に展示されている「Ju87」を追撃するかのように展示されている。流石に実戦でこの距離は接近しすぎて危険である。(→)
昭和15年(1940年)7月、ドイツ空軍はイギリス本土空襲を開始、「Battle of Britain」である。「スピットファイア」は、連日来襲するドイツ空軍の戦爆連合に対して果敢な迎撃を挑んだ。10月、ドイツ空軍はイギリス本土空襲を事実上放棄、「スピットファイア」はイギリス本土を護り抜いたのである。 (←)
「スピットファイア」は、その後も、度重なる改修を受けつつ、イギリス空軍の主力戦闘機として活躍した。インドやビルマ、オーストラリアにも多数が配備され、日本陸海軍機と死闘を繰り広げた。(→)
「ユンカース Ju87 スツーカ」、昭和12年(1937年)に登場した、ドイツ空軍(Luftwaffe)の急降下爆撃機(対地攻撃機)である。(←)昭和14年(1939年)9月1日に開始されたポーランド侵攻や、昭和15年(1940年)5月10日から開始されたフランス侵攻等、第二次世界大戦初期に於けるドイツ軍の破竹の電撃戦の立役者であった。
胴体下面のに500kg爆弾1発、両主翼下面にそれぞれ50kg爆弾2発を搭載する事が出来た。主脚は固定脚であった。展示機では主脚のカバーが失われている。(→)
高度3000mから目標に向かって急降下し、高度500m前後で投弾する急降下爆撃によって高い命中率を示した。併しながら、第二次世界大戦中盤以降、性能的な古さが目立つようになった。特に、最高速度が時速410km程度では連合軍戦闘機に簡単に捕捉され、イギリス本土空襲(Battle of Britain)では大損害を蒙った。後には、主翼下面に大口径機関砲を装備して対地攻撃を行った。 ドイツ空軍の撃墜王の1人であるハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、大口径機関砲を装備した「Ju87」でソ連軍の戦車500両以上・車両800両以上を破壊するという空前絶後の記録を打ち立てた。 尚、展示機は現存する「Ju87」2機の内1機である。
展示内容詳細に戻る
「戦跡の歩き方TOP」へ戻る>>「大東亜戦争遺跡」へ戻る>>「アメリカ本土」へ戻る>>「アメリカ中西部」へ戻る>>
「シカゴ科学産業博物館」へ戻る
>>「大東亜戦争遺跡(博物館・資料館)」へ戻る