日本海軍の 「零式艦上戦闘機六二型(零戦62型)」である。(←) 昭和20年(1945年)5月から生産が開始され、三菱で158機、中島で数百機(推定)が生産され、まとまった数が生産された 「零戦」の最後の型式となった。
「零戦」は様々な型式が開発され、初めての量産型であった 「零戦11型」は、昭和15年(1940年)7月24日、制式化された。長大な航続距離、重武装、優れた格闘性能は当時の各国の戦闘機を圧倒した。
「零戦」の型式番号は、十の位の数字が機体の改修回数、一の位の数字が発動機の換装回数を表した。
展示されている「零戦62型」の「六」は6回目の機体改修(爆装機)、「二」は2回目の発動機換装を表した。
2回目の発動機換装では「栄二一型」(1130馬力)を搭載する事を意味した。本来なら本機は水・メタノール噴射装置によって出力向上を狙った「栄三一型」が搭載され「零戦63型」となるはずであったが、開発が間に合わず、水・メタノール噴射装置を除いた「栄三一甲型」(「栄二一型」の改良型:1130馬力)を搭載した為、型式が「零戦62型」となった。
「栄三一甲型」である。離昇出力1130馬力を出力した。(→)
初期・中期の「零戦」 までは、発動機の各気筒からの排気を、集合排気管に纏めて、機体下方に排出していた。昭和18年(1943年)8月から生産開始された 「零戦52型」以降は単排気管として、排気を後方に高速で噴出させる形式(ロケット排気管)に改められ、速度向上に寄与した。 「零戦62型」にも採用された。 発動機覆い(エンジンカウル)後方に伸びている複数の管が単排気管である。(←)
「零戦21型」は旋回性を重視した翼(全幅12m・翼端に折畳装置を装備)に対し、 「零戦62型」は高速性を重視した翼(全幅11m・折畳装置無し)であった。(→)
初期・中期の「零戦」が機首に装備していた7.7mm機銃(「九七式七粍七固定機銃」)2挺は、戦争後期には威力不足となっていた。
「零戦62型」では機首の7.7mm機銃2挺を13.2mm機銃(「三式十三粍固定機銃」)1挺に置き換え、更に両主翼内にも2挺を追加した。(←)
「零戦62型」は低速の商船改造空母での使用を考えて開発された戦闘爆撃機であった。 大型爆弾を搭載しての急降下にも耐えられるよう、水平尾翼の内部構造強化や胴体下面の外板厚増加も実施された。
しかし、ダイブブレーキを装備していなかった為、効果的な急降下爆撃ができず、命中率は低かった。 胴体下面には、落下増槽と爆弾兼用の懸吊架(ボムラック)が装備された。
「零戦」は極限までの軽量化によって、航続距離や格闘性能、ある程度の高速性など、矛盾した要求を実現した非常に完成度の高い機体であった。併しながら、それ故、改良を行う余地がほとんど残されていなかった。しかし、後継の「烈風」の開発は大幅に遅れていた。数々の 「零戦」の改修は重量増加による性能低下を招いた。それでも 「零戦」は終戦まで戦い続けた。
開戦当初の熟練搭乗員は消耗し、日米搭乗員の技量も逆転していった。 戦闘爆撃機として開発された「零戦62型」も、大東亜戦争末期、遂にに特攻機として使用されることになった。
尾輪と着艦フックである。(←) 着艦フックは本機が艦載機である証であった。しかし、 「零戦62型」が登場した時、それを搭載する母艦は、最早どこにも存在しなかった。
尾翼の「ヨ-143」の「ヨ」は「横須賀海軍基地航空隊」所属機であること表す。この機体は戦後に横須賀で米軍に接収されたものである。(→)
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「零戦」の前には日本軍搭乗員の装備品が展示されている。パラシュートハーネスはレプリカであるが、その他は全てオリジナルである。(←)
複数の米軍人が米本土に持ち帰ったものを集めたもののようである。(→)
飛行時計である。(←) 当時は精密な航法装置がなく、また海軍航空隊搭乗員は目標物のない海上を飛行するため、自機の位置を把握することは容易ではなかった。飛行時間と速度、方位から自機の位置を把握することは極めて重要だった。
昭和17年(1942年)6月3日の「ダッチハーバー空襲」の際、日本軍機から投下された爆弾の破片である。(→) 当時「ダッチハーバー」にいたアメリカ人が空襲の直後に拾い、米本土に持ち帰っていたものである。昭和60年(1985年)に博物館に寄贈された。
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米軍の艦上戦闘機「F4F-4(ワイルドキャット)」である。航空母艦の飛行甲板を模した展示台に置かれている。(←)
「F4F」は昭和15年(1940年)に運用開始された。米海軍・米海兵隊に於いて、後継機の「F6F(ヘルキャット)」が登場した後も、離着陸距離の短さを生かして護衛空母に搭載され、終戦まで運用された。
「F4F-4」(4型)は「3型」から武装・エンジンが強化された。更に、主翼の後方折畳機構を装備し、航空母艦に於ける運用が容易になり、搭載機数も増した。「F4F-4」は「ミッドウェイ海戦」から戦列に加わった。(→)
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米陸軍の陸上戦闘機「P-40(ウォーホーク)」である。(←) 大東亜戦争開戦時にフィリピン諸島に72機、ハワイ諸島 (主に「オアフ島」)に100機、中国に90機が配備され、その他は米本土に展開していた。 中国の米陸軍航空隊は「フライングタイガース」と呼ばれ、義勇軍の形を取っていた。それは米国が当時中立の立場をとっていたためである。
「フライングタイガース」のパイロット達は戦後に貨物航空会社「フライングタイガース」を立ち上げた。この機体は「フライングタイガース」でレストアされ、設立者の乗機だった機体の塗装を再現したものである。(→)
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米陸軍の陸上戦闘機「P-51D-N25NA(マスタング)」である。爆撃機に随伴できる航続力と運動性を併せ持った連合国軍最強の陸上戦闘機であった。(←) 「P-51D」(D型)は「B型」「C型」の後方視界の悪さを改良し、武装を追加した型であり、「P-51」の中で、もっとも生産数が多い型であった。 米軍は硫黄島占領後に「P-51D」を装備する部隊を配備した。「P-51D」は「B-29」を護衛して日本本土上空に来襲し、猛威を振るった。
展示機は昭和20年(1945年)3月に製造され、戦争に参加する前に終戦を迎えた。機体には米陸軍第15航空軍第332飛行戦闘飛行群第100飛行隊(イタリアに展開)の飛行隊長機の塗装が成されている。(→)
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米軍の艦上爆撃機「SBD-4(ドーントレス)」である。(←) 大東亜戦争開戦前から終戦までほぼ全期間に渡って、米海軍・米海兵隊に於いて運用された。「ミッドウェイ海戦」では、日本海軍の正規空母4隻を撃沈するという大金星を挙げた急降下爆撃機であった。
「ミッドウェイ海戦」では、日本軍空母に先に到達した米軍雷撃機迎撃の為、直掩の 「零戦」は低空に降りていた。その隙をついて上空から「SBD」が日本軍空母に急降下爆撃を実施、被弾した日本軍空母では甲板上や格納庫に置かれた爆弾・魚雷・艦載機の燃料が次々に誘爆を起こした。日本海軍は正規空母4隻を喪失した
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米海軍の双発飛行艇「PBY-5A(カタリナ)」である。(←)
運用開始は昭和11年(1936年)10月であり、戦後も各国で使用された。 主翼を機体から離したパラソル式の飛行艇であり、補助フロートは空気抵抗低減のため引込式であった。哨戒任務や救難任務を中心に従事したが、魚雷や爆弾も搭載できた。
「ミッドウェイ海戦」では、「ミッドウェイ島」に配備されていた32機の「PBY」が綿密な哨戒をしたほか、魚雷を搭載して雷撃を行った。(→)
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本機は傑作旅客機として知られる「DC-3」を改修して開発された。「DC-3」は米国以外でも様々な国でライセンス生産された。
日本でも中島飛行機と昭和飛行機で501機が生産され、「零式輸送機」として日本海軍に採用された。
武装兵28名、あるいは貨物3〜4tを搭載し、3,420kmを飛行できた。機体はコックピット部分のみである。パイロットは2名であった。(→)
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英軍の陸上戦闘機「スピットファイア Mk.]Y」である。(←) 広い面積を持つ楕円形主翼が特徴的であった。(→)
「スピットファイア」は第二次世界大戦の英軍機で最も有名であろう。英国上空(バトル・オブ・ブリテン)ではドイツ空軍(ルフトバッフェ)と死闘を繰り広げた。
太平洋戦線では昭和18年(1943年)1月に「ポートダーウィン」(豪州)に展開したのが始めであり、同年10月からはビルマにも展開した。 ヨーロッパ戦線に於いて、高速のドイツ軍戦闘機に対して旋回性能で戦ってきた経験から、当初は日本軍の 「零戦」に格闘戦を挑み、逆に大損害を受けた。
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第一次世界大戦機に於けるドイツ軍戦闘機「フォッカー・アインディッカーEV」である。(←) 単座単葉戦闘機であった。プロペラ回転面を通して機関銃を発射することのできる同調装置を備えた最初の飛行機であった。昭和53年(1978年)、当博物館で発生した火災でオリジナルは焼失し、現在の展示機は複製品(レプリカ)である。
第一次世界大戦機に於けるドイツ軍戦闘機「フォッカー Dr.T」である。(→) 三葉機の戦闘機であった。「レッドバロン」ことマンフレート・フォン・リヒトフォーフェンも、本機を愛用していたことで知られる。現存機はなく、この展示機も複製品(レプリカ)である。
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飛行機の展示スペースの横にシミュレータが設置されている。(←)
こちらのシミュレータは可動式である。戦闘機の空中機動を再現しているのであろうか。コックピットの座席部分の箱が激しく動いている。(→)
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