PLANES OF FAME AIR MUSEUM

ロサンゼルスサンディエゴ

ロサンゼルスサンディエゴの戦跡
大東亜戦争におけるロサンゼルスサンディエゴの歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「PLANES OF FAME AIR MUSEUM」

「PLANES OF FAME AIR MUSEUM」の概略および歩き方
展示内容詳細

「PLANES OF FAME AIR MUSEUM」の展示内容

「チケット土産物売場」

チケット土産物売場 チケット土産物売場 建物を入ったところはチケット売場兼土産物売場となっている。この博物館では大戦機に体験搭乗ができる。(←)

DVDで「F6F(ワイルドキャット)」の飛行中の映像が流されていた。(→)

パンフレットによると、「SBD(ドーントレス)」「P-40(ウォーホーク)」「P-51(マスタング)」は715ドルで20分間の体験搭乗ができるようである。また、「B-25(ミッチェル)」は1750ドルで5人まで、「P-38(ライトニング)」は2000ドルだそうである。詳細はHPを参照。

「零式艦上戦闘機(零戦)五二型」

零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機五二型(零戦52型)」である。(←)

展示機の「零戦52型」は、昭和18年(1943年)8月から生産が開始され、三菱、中島で約6000機( 甲型・ 乙型・ 丙型含む)が生産され、もっとも多数が生産された 「零戦」の型式であった。

零戦52型」は、初期・中期の「零戦」と比較して速力・生産性に重点を置いた型式であった。発動機は「栄二一型」(離昇1130馬力)となり、初期の「零戦」の「栄一二型」(離昇940馬力)より出力が増加した。(→)

零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機(零戦)五二型 初期・中期の「零戦」までは、発動機の各気筒からの排気を、集合排気管に纏めて、機体下方に排出していた。 「零戦52型」以降は単排気管として、排気を後方に高速で噴出させる形式(ロケット排気管)に改められ、速度向上に寄与した。発動機覆い(エンジンカウル)後方に伸びている複数の管が単排気管である。(←)

零戦」の初陣は昭和15年(1940年)9月の重慶上空である。った。重慶を爆撃する陸上攻撃機に随伴した「零戦」13機は、ソ連製の「I-16」を主力とする中国軍機27機と会敵、「零戦」4機が被弾したが、中国軍機13機を撃墜、11機を撃破して完全勝利を収めた。

零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機(零戦)五二型 高速性を重視した「零戦52型」の主翼は、旋回性重視の「零戦21型」と比べて短くなった。主翼が短い(面積が小さい)方が、旋回の為の揚力は減少するが、抵抗が小さくなって速度が向上し、機体にかかる空気力が減少して急降下速度が向上した。また、主翼が短くなったことに伴い、翼端の折畳機構は廃止され、生産性が向上した。(←)

初期・中期の「零戦」はでは、武装が20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺であった。戦争後期は米軍機の防弾性能がより上がったため、「零戦52乙型」以降は武装が強化された。(→)

零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機(零戦)五二型 この機体は飛行可能なまでに復元されている。

車輪の間に受け皿が置かれている。エンジンオイル等が入っており、漏れた油を受け入れるために置いてあるのではないかと思われる。(←)

尾翼および尾輪である。(→)

現在、軽飛行機は操作性と操縦席からの視界性の良い前輪式が主流であるが、当時の飛行機は発動機の重量が重く、これを主脚で支えるために尾輪式が主流であった。

零式艦上戦闘機(零戦)五二型 零式艦上戦闘機(零戦)五二型 14気筒の「栄二一型」である。7気筒ずつ前面と後面に配置されている。離昇出力1130馬力を出力した。 (←)

機首の機銃(7.7mm機銃2挺)は発動機の後ろに装備されていた。発射された機銃弾は発動機の隙間から前方に射出されていった。また、プロペラ同調装置によって発射のタイミングが制御され、プロペラを撃ち抜いてしまわないようになっていた。

零戦22型」の右翼の翼内燃料タンクである。ニューギニアで墜落した機体から回収されたものである。(→)

「雷電」

雷電 雷電 日本海軍初の局地戦闘機「雷電」である。(←)

「雷電」は開発が難航し、量産が開始されたのは昭和18年(1943年)9月からであった。すばらしい能力を持ちながらも生産数合計は500機弱にとどまり、その能力を発揮する前に終戦を迎えた。

当時の爆撃機は急速な進化をとげており、日本海軍でも爆撃機を迎撃する専用の機種である局地戦闘機が求められた。そうした目的のため、旋回性能や航続距離よりも、大火力、高速力、上昇力が重視された。

雷電 雷電 この性能を実現するため、発動機には当時日本最大の1460馬力を発揮する「火星」が選定された。さらに水メタノール噴射器を追加して1800馬力まで出力増加見込まれた。

プロペラはブレードが付け根まで広い高高度用を採用した。(←)

「火星」は本来「一式陸上攻撃機(一式陸攻)」などの多発大型爆撃機用の発動機であり、直径が大きかった。その為、出力は大きいが空気抵抗も大きく、それは高速化にとっては好ましくないことであった。(→)

雷電 雷電 そこで、空気抵抗低減のため、機首を絞った流線型の紡錘型カウリング(発動機覆い)が採用された。機首を絞った為、プロペラは発動機から前方に離れ、カウリング前方からの発動機冷却用の空気流入量が減少した。これに対して、発動機から延長軸を使用してプロペラを回転させ、延長軸に発動機強制冷却用ファンを取付ける事で解決した。(→)
併しながら、この延長軸の採用が「雷電」の開発上の命取りとなった。

プロペラを回転時に、延長軸のブレなどにより大きな振動が発生したのであった。「雷電」の開発は、この振動対策の為に大きく遅延した。 (←)

雷電 雷電 紡錘型カウリウングによって操縦席からの視界不良という別問題も発生したが、後期型では大型キャノピー装備型が製作されて改善が図られた。

「二一型」は20mm機銃4挺を装備していた。(←)

最初の雷電部隊はバリクパパンに配備された。「B-24(リベレーター)や「P47(サンダーボルト)」を迎撃して少なくない戦果を挙げた。また、本土で「B-29(スーパーフォートレス)」迎撃で最も戦果を挙げたのも本機であった。しかし、いかんせん生産機数が少なく、十分な数を配備できなかった。

「秋水」

秋水 秋水 特殊戦闘機「秋水」である。(←)

「秋水」は大東亜戦争中、日本が飛行に成功した唯一のロケット戦闘機である。ロケット戦闘機はジェット戦闘機とは異なり、燃焼に必要な酸素を機内に搭載している。そのため、酸素濃度の薄い高高度でも高速が発揮できることが期待された。

「秋水」はドイツのロケット戦闘機「Me163(コメート)」の設計図を基に開発された。しかし、設計図をドイツから持ち帰った「伊号第二九潜水艦(伊29)」は、設計図の一部を「シンガポール」に残した後、バシー海峡で米潜水艦に撃沈されてしまった。(→)

秋水 秋水 日本軍は「シンガポール」に残された一部の資料を頼りに「秋水」の開発に取り掛かった。
しかし、特にロケットエンジン開発が難航し、試作1号機は昭和20年(1945年)6月まで遅れた。(←)

翌月の7月7日に初飛行が行われたが、高度400mで発動機が急停止して墜落してしまった。原因調査と再試験が計画されたが、先に終戦を迎えることとなった。戦後3機の「秋水」が米本土に運ばれた。

展示されている機体はそのうちの1機である。

秋水 秋水 原型である「Me163」同様、離陸時に主輪は切離された。攻撃後は、滑空して帰還し、機体下部に装備された橇で着陸する方式であった。(←)

「秋水」の最高速力は時速900kmとレシプロ機を圧倒できたが、飛行時間がわずか6分間であったため、迎撃発進のタイミングが最重要であった。局地戦闘機というよりも局点戦闘機と言える機体であり、日本よりもはるかにレーダー技術が進んでいたドイツ軍でも有効な戦果を挙げられていなかったことを考えると、仮に「秋水」が量産化されても戦局を変えるには至らなかったであろう。

「九九式艦上爆撃機」

九九式艦上爆撃機 九九式艦上爆撃機 「九九式艦上爆撃機」である。(←)
昭和15年(1940年)から昭和19年(1944年)まで日本海軍の主力艦上爆撃機(艦爆)であった。現在この機体はレストア中であり、飛行可能な状態まで復元される予定だそうである。

急降下爆撃時は速度が増加して機体にかかる負担が大きくなった。その為、機体は頑丈であり、急降下時の速度を制御できることが求められた。本機は主翼両側下面にダイブブレーキを装備していた。
主翼は取外されて棚に置かれている。(→)

九九式艦上爆撃機 九九式艦上爆撃機 本機は固定脚式であり、同時期の機種と比べると古めかしく感じる。引込脚式の方が空気抵抗が少なく高速化できるが、機構が簡単で堅牢、かつ急降下時の速度を限界内に抑えるために固定脚式が採用された。
現在、脚も取り外された状態となっている。(←)

開発当初、本機の挙動は不安定で何度も改修が加えられた。その1つが垂直尾翼前方のヒレの追加による横方向の安定性の向上であった。現在、垂直尾翼は骨組みだけの状態であり、ヒレは取外されている。(→)

九九式艦上爆撃機 九九式艦上爆撃機 本機は大東亜戦争序盤の日本軍の快進撃を支えた。「真珠湾攻撃」「セイロン島沖海戦」では驚異的な命中率を記録した。

後継機の「彗星」の開発および配備が遅れたため、本機は改修しながら末期まで使われ続けた。しかし、旧式化は歴然としており、発動機出力を1070馬力から1300馬力に向上させた「二二型」でも速力は時速429kmに過ぎなかった。防弾性能の低さもあり、時速600km以上の「F6F(ヘルキャット)」の追撃を受けて多くの「九九式艦上爆撃機(九九艦爆)」が撃墜された。発動機は取り外されている。(→)

「彗星」

彗星 彗星 艦上爆撃機「彗星」である。(→)
現在静態保存のためのレストア中である。

本機は、「九九式艦上爆撃機」の後継機であった。生産開始は昭和18年(1943年)6月であり、単発複座爆撃機としては世界的に見てもかなりの高速機であった。また、数々の新機構を備えていた。

高速を実現したのが、水冷式発動機、引込脚、爆弾倉の採用であった。特に、水冷発動機は直径が小さく、空気抵抗を減らすことが可能であった。(→)
しかし、水冷発動機は機構が複雑で、当時の日本国内の工業力では量産が難しかった。

彗星 彗星 また、日本国内の工作精度の低さから、故障が頻発、更に、当時は空冷発動機が主流で現場は水冷発動機の整備に不慣れであり、稼働率は低かった。後には、空冷発動機に換装した型式も登場した。

レストアには日本から取り寄せた図面が用いられているようである。(←)

本機は、「九九艦爆」に替わる日本海軍の主力艦爆として期待されたが、「マリアナ沖海戦」(昭和19年6月)以降、搭載する母艦も無く、更に、制空権は既に米軍に握られている状態であった。日本には手に余るほどの技術を盛り込んだ「彗星」は、大きな可能性を秘めながらも末期には特攻に投入されていった。

「一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型」

一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 「一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型」である(←)

「一式陸攻」大東亜戦争全期間に渡って使用された日本海軍の陸上攻撃機であった。生産機数は2416機で海軍機では「零戦」に次いで多く、その栄光と悲劇の例は数え切れない。

この機体はニューギニアで回収されたものである。損傷があまりに激しくレストアは断念され、ジャングルに墜落していた発見当時の様子がジオラマで再現されている。(→)

一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 概観上の特徴は胴体がかなり太いことである。これは空気抵抗を減らすために魚雷を爆弾倉に格納する形式を取ったこと、防御火力増加のため機体尾部銃座に20mm機銃を装備したためである。そのずんぐりした外見から「葉巻」と呼ばれた。

全幅は25m、全長は20mであり、横に並んでいる日本軍単発機と比べるとかなり大きく感じる。(←)

性能上の一番の特徴としては、長大な航続距離が上げられる。爆装で2500km、偵察で6060kmの航続距離があった。(→)

一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 乗員は7名であった。本機の初陣は昭和16年(1941年)7月の中国の重慶と成都爆撃であるが、同年12月の「マレー沖海戦」は有名であろう。(←)

本機は英軍が考えていたよりもはるかに遠方の陸上基地より到達し、雷撃によって英東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した。

当時航空機で装甲の厚い戦艦を撃沈することは不可能という考え方が主流であったが、本機はその常識を覆し、史上初の航空機による航行中の戦艦撃沈という金字塔を打立てた。

一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 一式陸上攻撃機(一式陸攻)一一型 この大航続力の秘密は、主翼内部の大部分を油密とし、広い主翼自体を燃料タンク(インテグラルタンク)とした事であった。
しかし、 「零戦」の優位性が薄れて制空権が取れなくなると、本機の防御力のもろさが露呈し始めた。主翼は全く防弾されておらず、広い主翼のどこに弾が当たっても、すぐに燃料に引火して炎上、墜落してしまったのである。(←)

山本五十六大将が前線視察の際、「ブーゲンビル島」上空にて「P-38(ライトニング)」の襲撃を受けて撃墜されて戦死したときに乗っていたのも本機である。展示機の前には撃墜現場の写真が展示されている。(→)

「桜花」

桜花 桜花 特攻兵器「桜花」である。(←)

「一式陸攻」の隣に展示されている。機首部に1,200kg徹甲爆弾を搭載した航空特攻兵器である。昭和20年(1945)3月21日、初めて実戦投入された。

母機である「一式陸攻」に吊って目標近くまで接近し、切り離して火薬ロケットを作動させて加速、ロケット停止後は滑空して敵艦に体当たりを行った。

「一式陸攻」に吊られた状態の絵が展示されている。(→)

桜花 桜花 操縦席には人形が乗せられている。(←)

帰還しないことを前提とした特攻兵器であり、車輪はなく台車に載せられて展示されている。側面に「ココノセル(ここ載せる)」という文字が読み取れる。(→)

「桜花」の問題点は航続距離の短さであった。比較的高い高度(7000m)で投下しても約60kmほどしか届かなかった。
敵艦を航続圏内に収める前にレーダーで探知され、母機もろとも撃墜されてしまうことが多かった。

「F4U-1A(コルセア)」

F4U-1A(コルセア) F4U-1A(コルセア) 米軍の艦上戦闘機「F4U-1A(コルセア)」である。(←)
「F4U」は昭和17年(1942年)12月から運用開始した艦上戦闘機であったが、当初は海兵隊の陸上戦闘機として運用された。実戦投入はガ「ダルカナル攻防戦」末期からである。コックピットからの視界が悪く、また着艦速度が早すぎたため、艦上機としての使用に不向きと考えられたためである。

本機は主翼の形状に特徴があり、胴体から翼端への途中で上向きに曲がった逆ガル式主翼を採用した。昭和20年(1945年)から視界を改良し、主翼も上方折畳式とした艦上機型が製造され、沖縄攻略戦で使用された。(→)

「P-38J-20-LO(ライトニング)」

P-38J-20-LO(ライトニング) P-38J-20-LO(ライトニング) 米陸軍の陸上戦闘機「P-38J-20-LO(ライトニング)」である。(←)

戦前に開発された双発の陸上戦闘機であり、爆撃機の迎撃任務のために火力、速力、高高度性能を優先させ、運動性能はあまり重視されていなかった。

「井桁型」と呼ばれる双胴の機体構造が特徴的であった。一般に双発戦闘機は、高出力である反面、特にロール(機軸を中心とした回転運動)機動が鈍い。(→)
重量物であるエンジンが機軸から離れた位置にあり、モーメントが大きいためである。

P-38J-20-LO(ライトニング) P-38J-20-LO(ライトニング) バットの細い方を持って振るのと太いほうを持って振るのとの違いをイメージすれば分かりやすいだろう。

そのため、当初「P-38」は日本軍機相手に格闘戦を挑み大損害を出し、日本軍搭乗員は本機の名前をカナ読みにもじって「ペロハチ」(ペロリと食えるという意味もあった)と呼んだ。
しかし、高速を生かした一撃離脱戦法に移行してからは攻守を変えた。

機首部分が取り外されたものがあり、操縦席が見られるようになっている。乗員は1人。(→)

P-38J-20-LO(ライトニング) P-38J-20-LO(ライトニング) 機首に20mm機関銃1挺と12.7mm機関銃4挺を備える重武装である。

なお、展示の「J型」は昭和18年(1943年)8月に生産を開始した。(←)

「P-38」の横のガラスケースの中には、出征する日本軍兵士のものだったと思われる日の丸の旗と、着剣した状態の「三八式歩兵銃」と「九九式短小銃」が展示されている。(→)

「P-40N-5-CU(ウォーホーク)・P-47G-15-CU(サンダーボルト)」

P-40N-5-CU(ウォーホーク)・P-47G-15-CU(サンダーボルト) P-40N-5-CU(ウォーホーク)・P-47G-15-CU(サンダーボルト) 「P-40N-5-CU(ウォーホーク)」である。(←)

開戦当時にフィリピン諸島やハワイ諸島、中国に展開していた。「零戦」や「一式戦闘機(隼)」に旋回性能で大きく劣っていたため苦戦した。しかし、速力と防弾性能は優れていたため、一撃離脱戦法に徹するようになってからは逆に日本側が苦戦を強いられた。

「P-47G-15-CU(サンダーボルト)」である。(→)
2535馬力という大出力のエンジンを装備した大型戦闘機であった。

「P-51D-10-NA・P-51D-30-NT(マスタング)」

P-51D-10-NA・P-51D-30-NT(マスタング) P-51D-10-NA・P-51D-30-NT(マスタング) 「P-51D-10-NA(マスタング)」である。(←)

「P-51」は大戦の後半に活躍したレシプロ機の傑作機である。優れた空戦性能と航続距離を合わせ持ち、爆撃機の長距離侵攻に随伴して護衛ができた。「D型」は最も多く生産された型である。

「P-51D-30-NT(マスタング)」である。(→)

「P-51」は形状がドイツ軍戦闘機「メッサーシュミットBf109」に似ていたため、味方対空砲に誤射されることがあった。白黒の縞はインベージョンストライプと呼ばれるノルマンディー上陸作戦時の敵味方識別用塗装である。

「SBD-5(ドーントレス)」

SBD-5(ドーントレス) SBD-5(ドーントレス) 「SBD(ドーントレス)」である。(←)

昭和15年(1940年)から生産が開始された米海軍・米海兵隊の艦上爆撃機であった。
速度や搭載量、また防弾装置に優れており、大東亜戦争後期まで運用された。

主翼後縁の穴あき式フラップが特徴的であった。急降下爆撃時はこれが上下に開き、ダイブブレーキの役目を果たした。
また、主翼は折畳式ではなかった。(→)

SBD-5(ドーントレス) SBD-5(ドーントレス) 本機は固定武装として、エンジンカウリング上部に50口径12.7mm固定機銃2門、後部座席に30口径7.62mm2連装旋回機銃1基を装備した。(←)

日本海軍の撃墜王坂井三郎准尉は、本機の旋回機銃の弾丸を頭部に受けて重傷を負い、戦線を離脱した。

「ミッドウェー海戦」(昭和17年6月5日〜7日)に於いては、日本海軍の正規空母4隻を撃沈した他、「珊瑚海海戦」「第2次ソロモン沖海戦」「南太平洋海戦」等、ソロモン諸島を巡る一連の海戦に於いて重要な働きをした。

「TBM-3(アベンジャー)」

TBM-3(アベンジャー) TBM-3(アベンジャー) 「TBM-3(アベンジャー)」である。(←)

旧式化した「TBD(デバステーター)」の後継機として開発された艦上攻撃機であった。「TBD」の最大の欠点であった航続距離の短さが改善され、昭和16年(1941年)12月から生産開始された。

「TBD」と比べてかなり大型化したが、主翼は折り畳めるようになっていた。(→)
全幅は16.51m、全幅11.6mであり、同フロアに展示されている「F4U(コルセア)」と比べて、見た感じでも大きく感じる。

TBM-3(アベンジャー) TBM-3(アベンジャー) 当初、グラマン社が製造していたが、途中からゼネラル・モーターズ(GM)社が製造するようになった。
グラマン社が製造した機体は「TBF」、GM社が製造した機体は「TBM」と表記される。

発動機は「ライト R-2600-201」(離昇1900馬力)を装備した。(←)(→)

「TBF」の初陣は「ミッドウェー海戦」(昭和17年6月5日〜7日)であった。「ミッドウエイ島」の飛行場から日本軍艦隊への攻撃に向かったが、6機のうち5機が撃墜された。制空権の無い場合、本機のように鈍重な艦上攻撃機は大きな犠牲を払わねばならなかった。

TBM-3(アベンジャー) TBM-3(アベンジャー) 操縦士、無線士、砲塔射撃手3名の乗員が搭乗した。武装は前方に12.7mm機関銃2挺、後部の電気駆動砲塔に12.7mm機関銃1挺、腹部に7.62mm機関銃1挺を装備していた。(←)

機体下面には大型の兵装倉を持ち、魚雷または900kg爆弾または230kg爆弾4発を搭載できた。機体が大型化したのはこの格納形式を取ったことも要因の一つであった。(→)

「F6F」が「零戦」から航空優位を奪い、制空権が確保されると、本機は艦上攻撃機としての真価を発揮した。日本海軍の戦艦「武蔵」「大和」に引導を渡したのは、本機による雷撃であった。

「B-17(フライングフォートレス)」

B-17(フライングフォートレス) B-17(フライングフォートレス) 昭和13年(1938年)4月に運用開始され、第二次世界大戦前期に活躍した米陸軍航空隊の主力大型爆撃機「B-17(フライングフォートレス)」である。12731機が製造された。(←)

当時、4発大型爆撃機は低速で運動性が悪く、敵の反撃の少ない夜間爆撃にしか使用できないという第一次世界大戦以来の考え方が主流であった。ボーイング社は「B-17」の開発によってこの常識を完全に打ち破った。(→)

映画「メンフィス・ベル」(1990年:アメリカ)では、本機が活躍している。

B-17(フライングフォートレス) B-17(フライングフォートレス) 爆撃機として世界最初の排気タービン式過給機を装備した。空気の薄い高空でも空気を圧縮してエンジンに送り込めるため、高空性能が大幅に向上した。(←)

ドイツや日本では実用化が遅れたため、高空で進入する「B-17」の迎撃は困難であった。

特に「E型」以降は防弾能力も優秀であり、小火器での撃墜は困難であった。
さらに後期型の「G型」では12.7mm機関銃を13挺装備していた。(→)

B-17(フライングフォートレス) B-17(フライングフォートレス) 航続距離は爆弾2722kg搭載時で3219kmであった。最大搭載量は4900kgであった。なお、日本海軍の「一式陸上攻撃機」の爆弾搭載量は800kgであり、それと比べても搭載量が大きかったことが分かる。(←)

欧州戦線ではイギリスからドイツの昼間爆撃に従事し、ドイツの工業地帯を爆撃した。昭和18年(1943年)頃までは護衛戦闘機がなかったため多数の損害を出したが、密集隊形で弾幕を張り、ドイツ軍戦闘機側の損害も大きかった。尾部の銃座が取り外されて展示されている。(→)

B-17(フライングフォートレス) B-17(フライングフォートレス) 尾部がガラス張りになっており、中を見ることができる。(←)

機体ラインが非常に滑らかな曲線と直線で構成されており、スマートな印象を受けるのが概観上の特徴である。(→)

太平洋戦線に於いては、東部ニューギニア「ポートモレスビー」を主たる基地として出撃し、「ラバウル」や「ブイン」の日本軍根拠地を爆撃した。防御力に優れた「B-17」であったが、この時期は日本軍が優勢であったため、 「零戦」でも、十分に接近して20mm機銃弾を撃ち込むなどすれば撃墜可能であった。

「B-25J(ミッチェル)」

B-25J(ミッチェル) B-25J(ミッチェル) 米陸軍の陸上中型爆撃機「B-25(ミッチェル)」である。(←)

ノースアメリカン社によって製造され、運用開始は昭和16年(1941年)であった。

屋外展示されている「B-17(フライングフォートレス)」の全幅は31.6mであり、全幅は20.6mの「B-25」は一回り小さく感じる。総生産数は約10000機であった。

主翼は中翼配置であり、双発機である。(→)

B-25J(ミッチェル) B-25J(ミッチェル) 「B-25」を運用したのは米陸軍・米海軍だけではなく、オーストラリア、イギリス(900機以上)、中華民国、オランダ、ソ連を含む国々によって多数の「B-25」が運用された。

最大2700kgの爆弾を搭載する事ができた。(←)

尾翼は双垂直尾翼であった。(→)
片方の尾翼が損傷しても、機体のコントロールを保つことができた。

B-25J(ミッチェル) B-25J(ミッチェル) 武装は12.7mm機関銃を12挺装備していた。
機首部分の銃座では、機関銃に送り込まれる弾帯を見ることができる。(←)

また、「B-25」は昭和17年(1942年)4月18日のドーリットル中佐の「東京初空襲」で使用された。米海軍の空母「ホーネット」から発艦して東京を爆撃し、中国国内へ着陸した。

「B-25」は陸上の飛行場での離発着を前提として設計されている爆撃機であり、空母からの発艦は離陸距離が足らず本来不可能である。ドーリットル中佐は「B-25」を極限まで軽量化することによって不可能を可能にした。

「He100D」

He100D He100D ドイツのハインケル社によって試作された「He100D」である。19機が試作されたが、制式採用されずに終わった。(←)

1938年に初飛行し、当時の新鋭機「Bf109E」よりも時速80kmも優速を示した。また、1939年3月10日、水・メタノール噴射装置付き高過給仕様の改造機で時速747kmの公認記録を樹立した。しかし、生産、整備上の問題点が多く、ついに採用されなかった。(→)

He100D He100D 日本海軍は大東亜戦争開戦直前の昭和16年(1941年)に国産化を前提として本機を3機購入した。評価試験での時速670kmもの高速は局地戦闘機との適性を感じさせた。しかし、生産技術が日本の水準を超えていたこと、緒戦の快進撃で防空思想が薄れていたことなどにより、採用は見送られた。構造はその後の航空機の設計の参考にされたとされている。

ハインケル社は採用されなかった本機を3機自社工場防衛用に置いていた。しかし、会敵する機会はなかった。

「Me163B(コメート)」

Me163B(コメート) Me163B(コメート) 航空機史上唯一の実用ロケット推進戦闘機「Me163B(コメート)」である。ドイツ軍によって昭和18年(1943年)から運用開始された。燃料の燃焼に外気が必要なジェット機とは異なる。(←)

「Me163」が実戦に投入され始めたころ、連合国軍はその驚異的な上昇力と高速に驚愕した。しかし、航続時間が約8分と短いことが判明し、連合国軍機は「Me163」が配備されていた2つの飛行場を避けて通過するようになった。ロケットエンジンの運用には特殊な施設が必要であり、配備基地は容易に変えることができなかった。

Me163B(コメート) Me163B(コメート) 全長は5.75mと、一般的なレシプロ戦闘機と比べてかなり小さく感じる。水平尾翼のない無尾翼機であるのが概観上の大きな特徴である。(←)

主輪は着脱式であり、重量と空気抵抗を軽減させるため離陸後に投下された。着陸時は滑空したあと橇で着陸する方式であった。高高度滑空中は敵戦闘機をダイブで振り切れたが、着陸態勢を狙われると容易に撃墜された。(→)

「He162A-1a(ザラマンダー)」

He162A-1a(ザラマンダー) He162A-1a(ザラマンダー) 第二次大戦末期に開発、製造されたドイツ軍の単発単座ジェット機「He162A-1a(ザラマンダー)」である。当時、米軍爆撃機に「P-51(マスタング)」が随伴するようになり、ドイツ軍の戦闘機部隊は次第に消耗していった。ドイツ軍は制空権を奪い返すためにジェット戦闘機の大量生産計画を立てた。(←)

コックピットには射出座席を装備していた。(→)

He162A-1a(ザラマンダー) He162A-1a(ザラマンダー) 当時のジェット機として高速度を誇り、高度6000mでは時速905kmもの速度を記録した。(←)

垂直尾翼はエンジンからの排気を避けるため、2枚に分かれていた。(→)

機体は可能な限り木製部品を使い、熟練工でなくても組み立てることが重要とされた。試験飛行で明らかになった問題点は先送りされ、生産が急がれたため、本機は未成熟な部分が多かった。操作性は悪く、操縦ミスのほか機体不良による事故の犠牲者も多かった。

「Ba349(ナッター)」

Ba349(ナッター) Ba349(ナッター) ドイツ軍で終戦直前に試作された迎撃用有人ミサイル「Ba349(ナッター)」である。ロケットブースターで発進し、目標付近まで無線誘導された。上空にて機首に装着された24〜33発のロケット弾を発射したのち、パイロットはパラシュートで脱出する仕組みであった。後に連合軍からは「有人対空砲」と呼ばれることになった。(←)

テストでは打ち上げ直後にパイロットが失神し、機体ごと墜落死する事故が続いた。生産は少数にとどまり、実戦参加はなかったとされる。(→)

「FZG-76(V1飛行爆弾)」

FZG-76(V1飛行爆弾) FZG-76(V1飛行爆弾) 世界初の巡航ミサイルである「FZG-76(V1飛行爆弾)」である。(←)

機体後部に取り付けられたエンジンはパルスジェットである。パルスジェットはガソリンを燃料とし、1秒間に10回ほどの断続的な推力を発生させる。この際にエンジン筒前面の空気取り組みスクリーンが開閉し、バイクのエンジン音に似た音を発生させる。このため、「ブンブン爆弾」というニックネームが付けられた。(→)

FZG-76(V1飛行爆弾) FZG-76(V1飛行爆弾) パルスジェットは時速304km以下では作動しないため、カタパルトによって発射された。ジオラマで発射台が再現されている。(←)

巡航ミサイルといっても、飛行速度は時速600kmほどであったため、英軍はプロペラ機で追いついて迎撃することが可能であった。機関銃によって撃墜しようとすると爆発してしまい、自機が損傷もしくは撃墜される可能性があった。そのため、「V1」の翼端に自機の翼端を当ててバランスを崩して撃墜する戦法が英軍パイロットの間で編み出された。(→)

「Yak-3」

Yak-3 Yak-3 ソ連軍の戦闘機「Yak-3」である。昭和16年(1941年)頃より低・中高度用の格闘戦闘機として開発されたが、一旦中止され、昭和18年(1943年)に計画が復活された。(←)

エンジンは液冷式であり、機体はスマートである。(→)

Yak-3 Yak-3 武装は12.7mm機関銃1〜2挺と20mm機関砲1門であった。(←)

生産はロシアとウクライナで行われた。実戦においては最も優れたソ連軍戦闘機と言われるほどの働きを残した。

「Yak-18」

Yak-18 Yak-18 ソ連軍の複座練習機「Yak-18」である。「Yak-9V」や「Yak-11」の後継機として使用された。(←)

朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国軍によって夜間攻撃機としても使用された。

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