YANKAS AIR MUSEUM

ロサンゼルスサンディエゴ

ロサンゼルスサンディエゴの戦跡
大東亜戦争におけるロサンゼルスサンディエゴの歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「YANKAS AIR MUSEUM」

「YANKAS AIR MUSEUM」の概略および歩き方
展示内容詳細

「YANKAS AIR MUSEUM」の展示内容

「桜花」

桜花 桜花 特攻兵器「桜花」である。(←)
目標付近まで母機(「一式陸上攻撃機(一式陸攻)」)で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりした。特攻の精神はアメリカ人には全く理解不能であり、「Baka Bomb」と名付けられていた。

全長6.066m、乗員1名、自重は440kg(爆弾を含まず)であった。他の飛行機と並んでいると、小振りな印象を受ける。(→)

「桜花」は帰還を期しない特攻兵器であった。その為、翼型は着陸進入を考慮しておらず、高速飛行状態である程度の操舵ができる程度であった。

桜花 桜花 また、車輪を装備していなかった。この機体は台車に載せた状態で展示されている。(←)

「桜花」の搭乗員の訓練は滑空練習用の「桜花」で行われた。上空で「一式陸攻」から切り離した後、滑空して機体につけた橇で着陸するという訓練であった。この滑空訓練では事故が頻発した。

機首部の1200kg徹甲爆弾は命中すれば戦艦をも一撃で撃沈できる、と期待された。不発を防ぐため、突入時に弾頭が確実に起爆するように信管を弾頭に1つ、弾底に4つ装備していた。(→)

桜花 桜花 「桜花」の操縦席である。
スティック型の操縦桿が見える。(←)

後部には3本のロケットエンジンが装備され、母機から切り離した後、1本あたり9秒間の噴射可能であった。(→)
急降下突撃状態の速度は時速1040kmに達し、その際の迎撃はかなり困難であったと思われる。

しかし、問題は「桜花」の航続距離であった。比較的高い高度(7000m)で投下しても約60kmほどしか届かなかった。

桜花 桜花 昭和19年(1944年)10月1日、「桜花」を運用する第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。
昭和20年(1944年)3月21日、「桜花」(神雷部隊)が初めて出撃した。目標は 「沖縄本島」近海の米軍艦隊であった。米軍はレーダーで日本軍機の接近を探知、発進した迎撃戦闘機は、桜花」の航続距離手前で母機(「一式陸攻」)を捕捉した。

出撃した「桜花」15機全てが、切り離し前に「一式陸攻」もろとも撃墜された。通常爆装よりも重い「桜花」を抱いた「一式陸攻」が米軍戦闘機の攻撃をかわすことは極めて困難であった。陸攻搭乗員も特攻隊員扱いであった。終戦までに「桜花」が撃沈した艦艇は米軍駆逐艦1隻のみであった。

「FM-2(ワイルドキャット)」

FM-2(ワイルドキャット) FM-2(ワイルドキャット) 米軍の艦上戦闘機「F4F(ワイルドキャット)」である。初期型の「F4F-3」はグラマン社によって生産され、昭和15年(1940年)11月から運用が開始された。(←)
零戦」と比べると、速度性能、上昇性能、機動性能で大きく劣っており、米軍はパイロットに 「零戦」との格闘戦を禁じていた。

「FM-2」はゼネラルモータース社が生産した 「F4F」の呼称であり、昭和17年(1942年)11月に初飛行した。軽量で離着陸距離が短いことを生かして戦争後半まで護衛空母搭載機として、米海軍・米海兵隊で運用された。

「F6F-5(ヘルキャット)」

F6F-5(ヘルキャット) F6F-5(ヘルキャット) 米軍の艦上戦闘機「F6F-5(ヘルキャット)」である。「F4F」の後継機となった艦上戦闘機である。(←)
昭和17年(1942年)末頃から運用され始めた。2000馬力級の発動機を搭載し、海面上昇率は 「零戦」とほぼ同等であった。その他の性能では、急降下性能、武装、防弾性能、横転性能、時速400km以上の速度域での旋回性能において 「零戦」に勝っていた。

生産性向上のため角張った形状が特徴的である。主翼は機体に沿って後方に折り畳むことができる。後ろから見ると、尾翼の幅よりも小さく畳まれていることが分かる。この機構は空母への搭載数増加に寄与した。(→)

「P-38L(ライトニング)」

P-38L(ライトニング) P-38L(ライトニング) 米陸軍の陸上戦闘機「P-38L(ライトニング)」である。(←)
昭和16年(昭和1941年)9月に運用開始された双発双胴の陸上戦闘機であった。戦略爆撃機に随伴できる4180km(L型)という大航続距離が特徴である。双発戦闘機は単発戦闘機と比べて運動性に劣り、大東亜戦争初期は 「零戦」や「一式戦闘機(隼)」に簡単に撃墜された。

しかし、配備数が増え、高速性を生かした一撃離脱戦法が確立されると、キルレシオは逆転していった。
なお、ソロモン諸島「ブーゲンビル島」上空で連合艦隊司令長官山本五十六大将(当時)の搭乗していた「一式陸攻」を撃墜したのも「P-38」である。

「P-39N(エアコブラ)」

P-39N(エアコブラ) P-39N(エアコブラ) 米陸軍の陸上戦闘機「P-39N(エアコブラ)」である。(←)
昭和16年(1941年)始め頃から運用開始された陸上戦闘機である。中央に液冷式の発動機を配置しているため、胴体中央が太い。日本軍搭乗員からは、その形状より「カツオブシ」と呼ばれた。

機首部が軽い本機は、米戦闘機で初めて前輪式(主脚が後ろ)が採用された。中高度域での性能、特に加速性が「零戦」に及ばなかったため、不利な戦闘を強いられた。

機体横には発動機(アリソン「V-1710」:離昇1200馬力)と機銃が展示されている。(→)

「P-40E-1(ウォーホーク)」

P-40E-1(ウォーホーク) P-40E-1(ウォーホーク) 米陸軍の陸上戦闘機「P-40E-1(ウォーホーク)」である。(←)
「P-40」は、昭和15年(1940年)頃からイギリスに供与されていた陸上戦闘機である。大東亜戦争開戦時はフィリピン諸島やハワイ諸島「オアフ島」にも配備されていた。 「零戦」や「一式戦闘機(隼)」の邀撃に当たったが、空戦性能に遅れをとり、劣勢に立たされた。

発動機は液冷V型12気筒のアリソン「V-1710」(離昇1200馬力)であり、当時の米軍の代表的な液冷発動機であった。
機首の大きなエアインテーク(空気取入れ口)が特徴的であった。このインテークに合わせて鮫の口のようなペイント(シャークピース)が施されている機体が多いようである。(→)

「YP-47M-1(サンダーボルト)」

YP-47M-1(サンダーボルト) YP-47M-1(サンダーボルト) 米陸軍の陸上戦闘機「YP-47M-1(サンダーボルト)」である。(←)
昭和18年(1943年)4月から運用開始された陸上戦闘機である。最大離陸重量7942kg、2430馬力の大型戦闘機(D型)であった。急降下速度は時速885kmに到達し、重量を相殺する大出力エンジンで上昇率も良かった。正規全備重量2421kg、降下制限速度629.7kmの 「零戦21型」と比較するとその特徴が良く分かるだろう。(←)

12.7mm機関銃8挺の重武装であった。(→)
ヨーロッパ戦線に於いては、主として対地攻撃に使用され、 ドイツ軍からはヤーボ(Jabo)と呼ばれて恐られた。

「P51A-10-NA(マスタング)」

P51A-10-NA(マスタング) P51A-10-NA(マスタング) 米陸軍の陸上戦闘機「P51A-10-NA(マスタング)」である。(←)
昭和18年(1943年)12月に運用開始された陸上戦闘機であり、最高のレシプロ戦闘機と評価されている。

初期型である「P51A」(A型)の製造数は310機のみであった。「A型」は高高度での性能が他の欧州機に及ばなかった。また、コックピットの後方視界が悪かった。(→)

この機体は戦後改造されて民間でレース用の機体として使われていた。当博物館において、12年間をかけてオリジナルの部品が収集され、元の状態にレストアされた。

「P-51D-30(マスタング)」

P-51D-30(マスタング) P-51D-30(マスタング) 米陸軍の陸上戦闘機「P-51D-30(マスタング)」である。「D型」は「P-51」の決定版であった。(←)
優れたスーパーチャージング(機械加給)技術が適用され、高高度性能が大幅に向上した。火力も2挺の機関銃が追加され、計6挺の12.7mm機関銃を装備していた。

また、「D型」は胴体後部を低くして水滴型のキャノピーとなり、後方視界が大幅に改善された。(→)

長い航続距離と優れた空戦性能を合わせ持った「P-51」の登場により、ドイツ軍は双発戦闘機や対重爆用に重武装・重装甲化した単発戦闘機の運用を封じらた。

「P-63A-7(キングコブラ)」

P-63A-7(キングコブラ) P-63A-7(キングコブラ) 米陸軍の陸上戦闘機「P-63A-7(キングコブラ)である。(←)
「P-39(エアコブラ)」の高高度による性能低下を解決した後継機である。陸上戦闘機であり、運用開始は昭和18年(1943年)10月。胴体中央に液冷式の発動機を置くレイアウトを踏襲している。

性能的にはかなり向上したものの、「P-47(サンダーボルト)」や「P-51(マスタング)」と比較すると速度も上昇力も航続距離も劣っていた。生産機数の大部分がソ連に供与(レンドリース)され、米国内では一部の練習部隊に配備されたのみだった。(→)

「SBD-4(ドーントレス)」

SBD-4(ドーントレス) SBD-4(ドーントレス) 米軍の艦上爆撃機「SBD-4(ドーントレス)」である。(←)
第二次世界大戦前に開発され、米海軍に於いてほぼ全期間に渡って運用された。米海軍は専用の偵察機を運用せず、艦上爆撃機で偵察任務を兼用していた。量産開始は昭和15年(1940年)である。(←)

2名の乗員が乗り、速力は時速410km、545kg爆弾を搭載した。ほぼ同時期の日本海軍の「九九式艦上爆撃機一一型」の速力は時速381km、搭載は250kg爆弾であった。機体性能は「SBD」が上だったと言えるだろう。

SBD-4(ドーントレス) SBD-4(ドーントレス) 武装は前方固定の50口径12.7mm機関銃2挺、後部座席に30口径7.62mm2連装旋回機銃1基を装備した。この機体では旋回機関銃は取外されている。(←)

「ミッドウェイ海戦」では、日本軍空母に先に到達した米軍雷撃機迎撃の為、直掩の 「零戦」は低空に降りていた。その隙をついて上空から「SBD」が日本軍空母に急降下爆撃を実施、被弾した日本軍空母では甲板上や格納庫に置かれた爆弾・魚雷・艦載機の燃料が次々に誘爆を起こした。日本海軍は正規空母4隻を喪失した。(→)

SBD-4(ドーントレス) SBD-4(ドーントレス) 主翼後縁の穴あき式フラップが特徴的である。(←)
急降下時にはこれが上下に開き、ダイブブレーキの役割を兼ねた。

昭和17年(1942年)、「ガダルカナル島」で日本軍の対空砲火で撃墜された「SBD」の主翼部分である。(→)

「ヘンダーソン飛行場」の滑走路端の100mほど南に37年間放置されていたが、昭和54年(1979年)に保存のために運び出された。レストア機と同じ米軍機の星マークがうっすらと残っている。

「TBF-1(アベンジャー)」

TBF-1(アベンジャー) TBF-1(アベンジャー) 駐車場左手のハンガーは工房となっている。ここにはレストア中の飛行機が置かれている。(←)

米軍の雷撃機「TBF-1(アベンジャー)」(レストア中)である。(→)
「TBS(デバステーター)」後継機として開発された。日本海軍でいうところの艦上攻撃機であった。生産開始は昭和16年(1941年)12月。
大東亜戦争中期以降、米海軍の主力雷撃機であった。

この機体は映画撮影用として使われていたが、昭和55年(1980年)にこの博物館にやってきた。

TBF-1(アベンジャー) TBF-1(アベンジャー) 説明板によると、レストア中に日本軍の27mm弾(25mmの機銃弾のことか)が尾翼部分から発見された、と書かれている。また、今日に現存する「TBF」2機のうちの1機だそうである。(←)

同時期に日本が開発していた艦上攻撃機「天山」に比べると大幅に劣っていたが、構造が簡素かつ頑丈で生産性が良かった。「天山」は開発に時間がかかり過ぎて戦機を逃したことを考えると、早期に量産化できた「TBF」の方が実戦に貢献したと言えるだろう。

「B-25J-30NC(ミッチェル)」

B-25J-30NC(ミッチェル) B-25J-30NC(ミッチェル) 米陸軍の双発陸上爆撃機「B-25J-30NC(ミッチェル)」である。(←)
「B-25」は米陸軍の双発爆撃機であった。昭和17年(1942年)4月19日、米海軍空母「ホーネット」から発艦し「東京初空襲」を実施した機種として有名である。空母から双発の陸上機が発艦したのはこれが史上初であった。

展示されているのは「J型」である。地上直協用機であり、前線の地上部隊と協力して局地的な対地攻撃を行う仕様となっていた。
なお、「東京初空襲」を実施したのは「B型」であった。

B-25J-30NC(ミッチェル) B-25J-30NC(ミッチェル) 「B-25」の特徴は機体およびエンジンの信頼性、軽快な運動性、短い離発着距離であった。
この長所をいかし、ニューギニア航空戦では飛行場の造成が終わるとすぐに本機が進出し、周囲の日本軍陣地に爆撃を加えた。(←)
「J型」の爆弾搭載量は1360kgであった。(→)
「ビスマルク海海戦」(ダンピールの悲劇)では軽快な運動性を生かして「反跳爆撃(スキップボンビング)」を行い、日本軍輸送船団を壊滅させた。この時、海に投げ出された日本陸軍第五一師団将兵(漂流者)に対し、米軍・豪州軍の航空機は何度も機銃弾補給を行いながら、機銃掃射を繰り返した。結果、3000名以上の漂流者が海の藻屑と消えた。

B-25J-30NC(ミッチェル) B-25J-30NC(ミッチェル) 「J型」の武装は12.7mm機関銃12門であった。下部および上部銃座が取り外された状態で展示されている。写真は下部銃座である。(←)
銃手1名がこの中に入り、銃座ごと旋回することが可能であった。銃座の中は狭く、銃手には嫌われた配置であったが、実際は、防弾板を背にしてしゃがむような姿勢でいた為、迎撃戦闘機による被弾率は最も低かった。
この傾向は、下部銃座を装備する他の機種にも同様であった。

尾翼は双垂直尾翼である。片方が破損もしくは喪失しても最低限の制御が確保できた。(→)

「Fi103(V-1飛行爆弾)」

Fi103(V-1飛行爆弾) Fi103(V-1飛行爆弾) ドイツ空軍が開発したミサイル兵器「Fi103(V1飛行爆弾)」である。(←)
現在の巡航ミサイルの原型となった。英国本土に対する爆撃機による戦果が期待できないため、この無人のミサイル兵器が開発された。「V1」は宣伝用の呼称であり、運用を担当していたドイツ空軍での正式名称は「Fi103(FZG)」であった。

ジャイロスコープによって方向を、アネロイド気圧高度計によって飛行高度を保ち、機首先端の小さなプロペラ回転数によって飛翔距離を算出した。一定回転数でエンジンが停止し、制御装置が機体を急降下させ、目標に突入する仕組みとなっていた。(→)

Fi103(V-1飛行爆弾) Fi103(V-1飛行爆弾) 比較的安価であり大量に発射されたが、戦闘機で迎撃可能な高度(1000〜1500m)を時速600km程度で飛行していたため、英軍は十分に撃墜可能であった。ロンドンに到達したのは9%程度であり、戦略的にはあまり有効ではなかったようである。

しかし、パルスジェットの耳障りなエンジ音はロンドン市民に恐怖心を抱かせた。(←)

「V1」はカタパルト式の発射機から射出された。車輪はついていないので、台車に載せられた状態で展示されている。(→)

「その他」

その他 その他 チケット売場の左手のハンガーは戦後の機体の展示が中心である。(←)

戦時中のチノ空港の写真である。(→)

チノ空港は陸軍航空隊の初等訓練に使われた。戦後は不要となった様々な機種の軍用機がスクラップされるために運び込まれた。

その他 その他 駐車場の左手のハンガーは工房と併設となっているが、その奥には当時の装備品が展示されている。軍服である。(←)

飛行帽とゴーグルである。(→)

その他 その他 チケット売場には土産物売場が併設されている。プラモデルなどの種類は豊富である。(←)

土産物売場のテーブルは飛行機の発動機を再利用して作ったもののようである。(→)

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