チュクエン山西側

トラック諸島−春島(ウエノ島・モエン島)

春島(ウエノ島・モエン島)の戦跡
大東亜戦争における春島(ウエノ島・モエン島)の歴史
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トラック諸島−春島(ウエノ島・モエン島)の戦跡

春島南部:チュクエン山西側

チュクエン山西側 チュクエン山西側

日本軍洞窟群
日本軍トーチカ
報国隊戦没者之碑

「日本軍洞窟群」

春島南部チュクエン山の西側の山麓には日本軍が建設した「洞窟」が多数遺されている。
この付近は「春島第二飛行場(水上機基地)」から近く、昭和19年(1944年)4月以降に「春島第二飛行場」に展開していた海軍第二二航空戦隊の司令部が置かれていた。後には、海軍第四七警備隊の司令部もここに置かれ、大東亜戦争末期、米軍機の空襲を避ける為、司令部や各種施設、物資等の殆どはこの様な「壕(洞窟)」に避難していたようである。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟@」(←)
チュクエン山の山麓に掘られており、確認できる中では最も南側にある。
壁面には人の手が入っており、人工的に掘られた「洞窟」であが、当時、どの様な目的で使用されていたかは詳細不明である。尚、「洞窟@」から北に250m程行くと「洞窟A」がある。

入口は四角く掘られている。(→)
現在、入口近くで土砂に埋まっており、奥まで入る事は出来ない。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟A」(←)
「洞窟@」から北に250m程の斜面に掘られている。

「洞窟@」と同様に入口は四角く整形されている。「洞窟A」は内部も比較的広く、土砂にも埋まっていない。
付近では最も保存状態が良い。(→)

「洞窟A」は内部が広く、海軍の通信施設が置かれていたという資料もあるが、詳細不明である。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 入口付近はは天井が低いが、内部は天井が高い。尚、入口がもう1箇所あるが、こちらは民家の裏庭に通じており、表の道からは見えない。(←)

途中に広い部屋があり、床にはコンクリート製の土台が遺されているが、詳細不明である。戦後の一時期まで海軍の通信設備が一部遺されていたという資料もあり、当時、通信設備が設置されていた土台かもしれない。(→)
他にも遺物が遺されているが、戦後に持ち込まれたと思われるゴミも混ざっているようであり、詳細不明である。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟A」は、更に奥に続いており、曲がりくねりながら次第に登っていく。(←)

先に進んでいくと裏口に出る。(→)
裏口は、表の入口のように四角く整形されておらず、自然の岩肌のようである。

「洞窟A」は入口2箇所・裏口1箇所を持ち、内部も広く掘削されている大規模な洞窟である。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟A」から北に500m程行くと「洞窟B〜D」が遺されている。これらは、内部で繋がっているそうであるが、戦後に洞窟内の崩落等があった為、人が立ち入らないように入口が付近が埋められいる。

「洞窟B」(←)
道路から少し入った斜面に入口がある。

入口は低く、現在は土砂とゴミで埋まっていて、中に入る事は出来ない。(→)

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟C」(←)
「洞窟B」から北に10m程の岩場に掘られている。

入口は、一部土砂とゴミで埋まっているが、奥に続いている。また、内部は人工的に掘られている事が分かる。(→)

「洞窟B」「洞窟D」と内部で繋がっているそうであるが、戦後に内部で崩落があり、内部で遺物漁りをしていた現地人が巻き込まれるなどした為、現在は入口が埋められている。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟D」(←)
「洞窟C」から北に10m程行った所にある。

こちらも入口は土砂で埋まっている。(→)

これら「洞窟群」の内部には、嘗ては日本軍の遺物が遺されていたそうであるが、戦後に付近の現地人が持ち去ってしまい、現在では殆ど遺されていないそうである。
本来なら、このような貴重な戦争遺跡は適切な保存を図るべきであろう。

「日本軍洞窟群」の歩き方

春島南西部の山麓にある。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 チューク国際空港」から南に約3.5km、「チューク港」からは南に約2.5km行くと道路が二股に分かれる「分岐」があるので、左側(東側・山側)の道路を更に南に行く。

「分岐」から南に550m程行くと、付近の道路の左手(東側・山側)の土手の上に屋根のある「休憩所」がある。

「休憩所」の直ぐ下に「洞窟D」があり、そこから10m程の間隔で「洞窟C」「洞窟B」の入口が道路沿いにある。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 「洞窟B〜D」から南に500m程行くと道路の左手(東側・山側)に「洞窟A」の入口がある。

「洞窟A」の直ぐ左側(北側)にはトタン屋根の「廃屋」がある。(写真右中 →)

「洞窟A」の入口の「廃屋」から南に250m程行くと道路から左手(東側・山側)に10m程入った所に「洞窟@」がある。

日本軍洞窟群 日本軍洞窟群 或いは、春島南端の「ブルーラグーンリゾート」からは、「宝島」(レストラン・旅館)を越えた先の「T字路」を左折して北に向かう。

「T字路」を越えて、北に150m程行くと道路から右手(東側・山側)に10m程入った所に「洞窟@」がある。(写真右下 →)

「洞窟@」から北に250m程行くと道路の右手(東側・山側)に「洞窟A」がある。

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「日本軍トーチカ」

日本軍トーチカ 日本軍トーチカ 春島南部の西側の海岸付近に「日本軍トーチカ」が遺されている。(←)

「トーチカ」は海岸から10m程先の海中にある。
海面が天蓋近くまで来ており、殆ど海没している事から、当初から海中に建設されていたとは考えにくい。戦後に海岸が浸食されて「トーチカ」のみが海中に取り残されたのだろうか。

陸地側に出入口が見える。天蓋は石や岩を混ぜたコンクリートが盛られている。(→)

日本軍トーチカ 日本軍トーチカ 付近の砂浜にはコンクリート製の「欄干」が遺されている。日本統治時代や日本軍が建設した護岸だろうか。詳細不明である。(←)

付近は「春島第二飛行場(水上機基地)」から北に500m程の場所である。「水上機基地」の一部だったのだろうか。(→)

尚、ここからは対岸に秋島が見える。(→)

「日本軍トーチカ」の歩き方

春島南西部の海岸にある。

日本軍トーチカ 日本軍トーチカ 春島南端の「ブルーラグーンリゾート」から道路を北に向かう。150m程行くと左手に「未舗装路」があるので、これを左折する。
この時、右手前方には「宝島」(レストラン・旅館)が見えている。

未舗装路を650m程行くと、左手(西側・海側)に砂地に椰子の木が生えた「広場」がある。

「広場」に向かって右手(北側)の海岸から10m程の海上に「日本軍トーチカ」がある。
「広場」を挟んだ未舗装路からも見えている。

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「報国隊戦没者之碑」

報国隊戦没者之碑 報国隊戦没者之碑 春島南部チュクエン山の西側の山麓に「報国隊戦没者之碑」が遺されている。(←)

「碑」は「民家」の庭先にある。(→)

昭和14年(1939年)10月、日本海軍からの要請を受けた司法省は、「横浜刑務所」を拠点として全国から選抜した受刑者約2000名を、飛行場建設の設営隊員として南方群島へ派遣する事を決定した。

派遣される囚人部隊は南方赤誠隊と命名され、12月にはマリアナ諸島テニアン島・マーシャル諸島ウォッジェ島への派遣が開始された。特に、テニアン島では約2年をかけて「牛飛行場」を完成させた。

報国隊戦没者之碑 テニアン島・ウォッジェ島での工事を終えた報国隊は一旦帰還したが、昭和16年(1941年)10月、日本海軍の更なる要請によって「横浜刑務所」はトラック諸島に囚人部隊を派遣、部隊名も図南報国隊と改めた。報国隊は昭和17年(1942年)4月まで4回に渡って派遣され、職員約150名・囚人約1300名が春島の「陸上飛行場(春島第一飛行場)」と「水上機基地」の構築作業に従事する事になった。

報国隊の囚人は海軍設営隊の指揮下に入り、司法省派遣隊と呼ばれた。この時、囚人の作業服が青色であった為、現地では青兵や青隊と呼ばれていたそうである。作業に於いては、5個中隊(25個分隊)に編成され、1個分隊約50名であった。中隊長は看守長、分隊長は看守部長が務め、各分隊には看守3,4名が配属された。
報国隊は囚人部隊であったが、お国の為に働けるという事から士気が高く、1年間で3年分の刑期に相当するという特典もあり、多くの囚人が志願したという。待遇に関しても、当初は空襲も無く食事も十分に支給されていた。また、地理的に逃亡の可能性も無い為、行動は比較的自由だったそうである。
昭和18年(1943年)に入ると「春島第一飛行場」の工事も目処がつき、引き続き春島南端の「水上機基地」の建設作業にも合流、同年末にはこれも竣工し、海軍から感謝状が出た。

当時、報国隊の本部は春島西岸の中央付近、ちょうど現在の市街地付近に置かれていた。(←)

報国隊戦没者之碑 しかし、昭和19年(1944年)2月17日・18日、トラック諸島は米海軍の大規模な空襲を受け、海軍根拠地としての機能を喪失、「春島第一飛行場」や「水上機基地」にも大きな損害が出た。更に4月30日・5月1日にも大規模な空襲を受けるに至り、報国隊に対して内地への帰還命令が出た。併しながら、この時既に、所在の船舶の殆どが海没、更には米海軍潜水艦の跳梁によって帰還は困難な状況であった。特に、昭和19年(1944年)1月19日には、職員40名・受刑者約100名が乗船した輸送船が撃沈され、助かったのは職員4名・受刑者約20名であったという。

結果、報国隊は現地の陸海軍部隊や邦人と共にトラック諸島に孤立、終戦まで自給自足の生活を余儀なくされた。昭和19年(1944年)4月に最後の輸送船が到着した時、報国隊は職員95名・受刑者492名であったが、その後の食糧難や空襲などによって多くの犠牲者を出し、終戦後の帰国時には職員約70名・受刑者約100名(110名は現地で刑期満了によって釈放され、海軍設営隊に編入)になっていた。
尚、後に、当時は囚人のみが過酷な生活を強いられて多くが死亡したという証言もあったが、報国隊に限らず、孤立したトラック諸島では陸海軍部隊や一般邦人にも多くの餓死者や栄養失調者が出ている。

昭和20年(1945年)8月15日、大東亜戦争が終戦、同年10月16日にトラック諸島からの復員が開始された。
「碑」は、復員直前の昭和20年(1945年)10月に建立され、司法省派遣報国隊長菊楽夷と刻まれている。(→)

「報国隊戦没者之碑」の歩き方

春島南西部の山麓にある。

報国隊戦没者之碑 報国隊戦没者之碑 チューク国際空港」から南に約3km、「チューク港」からは南に約2km行くと道路の左手(東側・山側)に「高校(MIZPAH CHRISTIAN HIGH SCHOOL)」がある。
或いは、春島南端の「ブルーラグーンリゾート」からは、「宝島」(レストラン・旅館)を越えた先の「T字路」を左折して北に向かう。北に約2km行くと道路の右手(東側・山側)に「高校(MIZPAH CHRISTIAN HIGH SCHOOL)」がある。

「高校」に向かって右側(南側)から奥(東側・山側)に入る道が続いている。(写真右上 →)

報国隊戦没者之碑 報国隊戦没者之碑 道は「高校」を越えたあたりで左に折れて北に向かっているので、道なりに進む。

道に入って150m程進んでいくと右手(東側・山側)に細い道が分かれる「分岐」があるので、右折して細い道に入る。
この道を道なりに150m程行くと右手(南側)に「民家」が見える。(写真右下 →)

「民家」の前に「報国隊戦没者之碑」がある。
ここは私有地なので、「民家」の住人に断ってから入ること。無断で立ち入ってはいけない。

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