夏島中部

トラック諸島−夏島(トノアス島・デュブロン島)

夏島(トノアス島・デュブロン島)の戦跡
大東亜戦争における夏島(トノアス島・デュブロン島)の歴史
現地への行き方と現地交通情報旅行情報

トラック諸島−夏島(トノアス島・デュブロン島)の戦跡

夏島中部

夏島中部 夏島中部

海軍通信隊跡地
海軍発電所壕跡
旧日本軍陸橋
旧公学校
海軍長官宿舎跡
森小弁須徳碑

「海軍通信隊跡地」

海軍通信隊跡地 海軍通信隊跡地 夏島中部に「海軍通信隊跡地」が遺されている。現在は地元の小学校の敷地となっている。(←)

大東亜戦争中、ここには第四艦隊附属の第四通信隊が置かれていた。
渡り廊下で繋がった「大型兵舎(長さ:30m)」7棟、「発電所」や「倉庫」等の建物が多数、籠状の「無線塔」3基、コンクリート製の「防空壕(退避壕)」等が建てられていた。

小学校の敷地の入口近くにコンクリート製の「土台」が遺されている。(→)

海軍通信隊跡地 海軍通信隊跡地 他にもコンクリート製の「土台」が遺されており、この「土台」には鉄製の「レール」や「環」多数が取付けられているのが分かる。(←)

この「土台」は、コンクリート製の立方体で、上部にボルト4本が埋め込まれている。(→)

これらは、その形状から「無線塔」の「土台」であったと思われるが、詳細不明である。

海軍通信隊跡地 海軍通信隊跡地 小学校の敷地の真ん中にコンクリート製の「防空壕(退避壕)」が遺されている。(←)

コンクリート製で、三角柱を寝かした形状をしている。これは、太平洋各地の海軍施設に遺される「防空壕(退避壕)」に見られる一般的な形状である。

中央に鉄扉を備えた出入口を持ち、出入口の前には爆風避けのコンクリート壁がある。左右の端には鉄扉を備えた通風孔がある。(→)

海軍通信隊跡地 海軍通信隊跡地 同形状の「防空壕」が、夏島北東部詳細)や、夏島南部の「水上機基地跡」に遺されている。

「防空壕」はちょうど小学校の校庭の真ん中にある。直ぐ後ろには大きな木が生えているが、「防空壕」が建設された時はまだ小さな苗だったに違いない、70年近い歳月を経て周囲の景色はすっかり変わったが、この「防空壕」だけは当時の姿のまま、今では子供たちの遊び場になっている。(←)

「防空壕」の側には円形の「金具」が取付けられたコンクリート製の「土台」がある。(→)

「海軍通信隊跡地」の歩き方

夏島中部にある。

海軍通信隊跡地 海軍通信隊跡地 トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進むと右手(北側)に「小学校」がある。ここが「海軍通信隊跡地」である。

或いは、「支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から400m程で左手(西側)に「旧公学校」があるので、ここから更に100m程進むと「T字路」がある。「T字路」を右折して東に200m程進むと左手(北側)に「小学校」がある。ここが「海軍通信隊跡地」である。

尚、この「T字路」を左折して西に50m程進んだ左手(南側)に「海軍発電所壕跡」がある。

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「海軍発電所壕跡」

海軍発電所壕跡 海軍発電所壕跡 夏島中部、「海軍通信隊跡地(第四通信隊)」の近くの土手に「海軍発電所壕跡」が遺されている。(←)

長さ:約100m・高さ:約3.5m、壁面はコンクリートで固められている。(→)

この「壕(トンネル)」は、第四通信隊の非常用発電所として建設された。
大東亜戦争末期、トラック諸島に対する米軍の空襲が激しくなると、第四通信隊は地上の通信所(通信隊敷地)からこの「壕」に移った。

海軍発電所壕跡 海軍発電所壕跡 内部は一直線のトンネルになっている。コンクリート壁には迷彩用の緑色のペンキが一部確認できる。床はほぼ平らであるが、現在は10〜15cm程水が溜まっている。(←)

奥には「発電機」が据え付けられていたが、30年程前に台風による土砂崩れで埋まってしまい、現在は確認する事が出来ない。(→)

「海軍発電所壕跡」の歩き方

夏島中部にある。

海軍発電所壕跡 海軍発電所壕跡 トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進むと右手(北側)に「小学校」があり、ここから更に200m程進むと「T字路」がある。「T字路」を直進して西に50m程行った左手(南側)の土手に「海軍発電所壕跡」がある。

或いは、「支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から400m程で左手(西側)に「旧公学校」があるので、ここから更に100m程進むと「T字路」がある。「T字路」を左折して西に50m程進んだ左手(南側)の土手に「海軍発電所壕跡」がある。

現在、「海軍発電所壕跡」は私有地内にある。写真撮影や見学をしたい時は、地権者に見学料として1人5ドルを支払う。
手前の「T字路」の北西角に「商店」があり、ここの店主が地権者である。現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「旧日本軍陸橋」

旧日本軍陸橋 旧日本軍陸橋 夏島中央の湾を跨いで夏島中部と夏島北東部を結ぶ「旧日本軍陸橋」が遺されている。(←)

この「陸橋」は日本軍によって建設され、第四艦隊司令部第四海軍病院のあった夏島北東部と、行政の中心地であった夏島中部とを結んでいた。

当時の夏島中部(写真下側)と夏島北東部(写真上側)である。(→)

旧日本軍陸橋 旧日本軍陸橋 文章03(←)

文章04(→)

旧日本軍陸橋 旧日本軍陸橋 文章05(←)

文章06(→)

「旧日本軍陸橋」の歩き方

夏島中部にある。

旧日本軍陸橋 旧日本軍陸橋 トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進む」と右手(北側)に「小学校」があり、ここから更に200m程進むと「T字路」がある。
或いは、「支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から400m程で左手(西側)に「旧公学校」があるので、ここから更に100m程進むと「T字路」がある。

「T字路」から西に100m程行くと道が二股に分かれる「分岐」があるのでここを右折(北向き)する。尚、付近の南側の土手に「海軍発電所壕跡」がある。「分岐」から150m程行くと「旧日本軍陸橋」の南端に出る。

若しくは、夏島北東部の「旧台湾銀行」から南に伸びる道をまっすぐ進むと、700m程で「旧日本軍陸橋」の北端に出る。

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「旧公学校」

旧公学校 旧公学校 夏島中部に「旧公学校」が遺されている。(←)
「公学校」とは、日本統治時代に整備された現地人児童の為の教育施設である。

「夏島公学校」での授業中の一こま。(→)
国語(日本語)の授業であろうか。現在のように男子児童と女子児童が同じ教室で学んでいる。

旧公学校 旧公学校 大正8年(1919年)にドイツ領南洋諸島が日本の委任統治領南洋群島になり、大正11年(1922年)に南洋庁が置かれた。(本庁はパラオ諸島コロール島
この時、日本人児童向けの小学校や中学校の他に、現地人児童の為の公学校が置かれた。

トラック諸島では、昭和2年(1927年)に春島・夏島・水曜島に公学校が置かれた。(←)(→)
尚、昭和3年(1928年)には冬島、昭和5年(1930年)には月曜島、昭和12年(1937年)には秋島にも公学校が置かれた。公学校には本科(3年)があり、優秀な児童は更に補習科(2年)に進学出来た。

旧公学校 旧公学校

現在、「夏島公学校」の建屋は、トノアス島の市役所兼市長官舎として使用されているが、訪れる人も殆ど居らず、閑散としている。(←)
日本統治時代、ここでは多くの現地人児童が学び、元気に遊びまわる子供の姿が見られた事であろう。

「旧公学校」の直ぐ北東、道路を挟んだ土手の下には広場がある。(→)
この広場は「野球場」だったそうである。おそらく「夏島公学校」の運動場だったのだろう。
尚、大東亜戦争中はこの広場に「将校用宿舎」が建てられていたが、現在はその遺構は遺されていない。

「旧公学校」の歩き方

夏島中部にある。

旧公学校 旧公学校 支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から400m程で左手(西側)に「旧公学校」がある。「旧公学校」の右奥(北東)の道の下にある広場が「野球場」である。

或いは、「トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進む」と右手(北側)に「小学校」がある。ここから更に200m程進むと「T字路」があるので、左折して南に100m程行くと右手(西側)に「旧公学校」がある。
「T字路」前後で道の左手(南側・東側)の下にある広場が「野球場」である。

尚、「旧公学校」のすぐ南の道の脇(西側)に「森小弁須徳碑」がある。

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「海軍長官宿舎跡」

海軍長官宿舎跡 海軍長官宿舎跡 夏島中部の小高い丘の上に「海軍長官宿舎跡」が遺されている。(←)
元々は、日本統治時代の南洋庁関係者の官舎であったが、大東亜戦争中は海軍が接収し、司令官の官舎として使用していたようである。

「宿舎跡」は丘の上にあり、登り口には石の「門柱」2基が遺されてい(←)

「門柱」から「宿舎跡」まで石畳の道が遺されているが、現在は草に埋もれて獣道になってしまっている。(→)

海軍長官宿舎跡 海軍長官宿舎跡 道を登ると丘の上に「宿舎跡」が見えてくる。(←)

屋根は失われてしまっているが、コンクリート造りの壁や窓枠が遺されている。(→)

夏島には昭和 年(19 年)に第四艦隊司令部が置かれていたが、昭和17年(1942年) 月には連合艦隊司令部も進出、当時の連合艦隊司令長官は山本五十六大将であった。
この「宿舎」を誰が使用していたかは詳細不明であるが、あるいは山本長官もここに滞在する事があったかもしれない。

海軍長官宿舎跡 海軍長官宿舎跡 旧公学校」から「宿舎跡」に通じる道沿いには、コンクリート製の「階段」が遺されている。(←)

日本統治時代、この付近に「郵便局」があった。ひょっとするとその遺構かもしれないが、建屋等は遺されておらず、詳細不明である。

近くの土手には「洞窟」が遺されている。(→)
人工的に掘ったと思われる小さな「洞窟」である。防空壕として使用されていたのだろうか。

「海軍長官宿舎跡」の歩き方

夏島中部にある。

海軍長官宿舎跡 海軍長官宿舎跡 支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から400m程で左手(西側)に「旧公学校」がある。「旧公学校」の前を通って左折(西側)する道があるので、右折して西に進む。
或いは、「トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進む」と右手(北側)に「小学校」がある。ここから更に200m程進むと「T字路」があるり、、左折して南に100m程行くと右手(西側)に「旧公学校」があるので、その手前の道を右折(西側)して西に進む。

旧公学校」から西に300m程行くと、右手(北側)の藪に「門柱」2基が見える。ここに小高い丘に登る獣道の入口があり、藪の下の石段が上まで続いている。

この獣道を登ると左手に「民家」があり、その右に「海軍長官宿舎跡」がある。
ここは、「民家」の敷地内であり、住民が生活している。写真撮影や見学をしたい時は、住民の方に見学料として1人5ドルを支払う。
現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「森小弁須徳碑」

森小弁須徳碑 森小弁須徳碑 夏島中部、「旧公学校」の側に「森小弁須徳碑」が遺されている。(←)

森小弁(もり こべん)は、明治2年(1869年)10月15日に土佐藩士の家に生まれた。明治25年(1892年)、22歳の時に、スペイン統治下のトラック諸島に渡航した。この頃の現地の治安は極度に悪く、現地人の襲撃によって右手を失ったが、現地の社会に溶け込み、部族抗争にも参加した。29歳の時に現地人女性と結婚し、男6人・女5人の子供をもうけた。
明治31年(1898年)、トラック諸島がドイツ領となると、現地の日本人はドイツ政府によって追放される事になったが、森小弁は何とかこれを切り抜け、貿易事業も次第に軌道に乗っていった。

森小弁須徳碑 森小弁須徳碑 大正8年(1919年)、トラック諸島日本の委任統治領となると、森小弁は、渡航してきた多くの日本人と現地人との橋渡しとなった。また、学校を建設し、現地社会の発展に貢献した。そして、昭和20年(1945年)、大東亜戦争終戦直後に76歳で他界した。
しかし、森小弁の子供たちは、その後も現地社会で活躍、現在、その血縁者は約3000人おり、モリ一族はチューク諸島の有力者となっていった。現職のミクロネシア連邦第7代大統領マニー・モリ氏も森小弁のひ孫にあたる。日本に於いても、森小弁の活躍は、戦前・戦後の人気漫画「冒険ダン吉」の基になったとも言われている。
「須徳碑」は、森小弁を記念して日本統治時代に建てられた。(←)(→)

「森小弁須徳碑」の歩き方

夏島中部にある。

森小弁須徳碑 森小弁須徳碑 支庁桟橋跡」から北に伸びる道を進む。「支庁桟橋跡」から350m程で左手(西側)に「民家」があり、そのすぐ先の道の脇(西側)に「森小弁須徳碑」がある。尚、「森小弁須徳碑」の先には「旧公学校」が見えている。

或いは、「トラック病院跡」から北西に伸びる道を350m程進む」と右手(北側)に「小学校」がある。ここから更に200m程進むと「T字路」があるり、、左折して南に100m程行くと右手(西側)に「旧公学校」がある。そのすぐ先の道の脇(西側)に「森小弁須徳碑」がある。

現在、「森小弁須徳碑」は私有地内にあるが、道から見える位置にある。
写真撮影をする場合は地権者に見学料を支払う必要があるが、道から見る分にはその必要はない。現地人ガイドの指示に従うと良いだろう。

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