夏島北東部

トラック諸島−夏島(トノアス島・デュブロン島)

夏島(トノアス島・デュブロン島)の戦跡
大東亜戦争における夏島(トノアス島・デュブロン島)の歴史
現地への行き方と現地交通情報旅行情報

トラック諸島−夏島(トノアス島・デュブロン島)の戦跡

夏島北東部

夏島北東部 夏島北東部

旧台湾銀行
記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地)
第四艦隊司令部跡(防空壕跡)
海軍防空壕
日本軍洞窟
海軍無線塔土台
海軍病院跡
赤城丸殉難之碑

「旧台湾銀行」

旧台湾銀行 旧台湾銀行 夏島北東部に「旧台湾銀行」が遺されている。(←)

「二階建民家」の裏側に「銀行台湾」の「金庫室」の一部が遺されている。(→)

「台湾銀行」は、明治32年(1899年)6月、日本統治時代の台湾に設置された中央銀行で、日本の日本銀行に相当する特殊銀行であった。
台湾台北に「台湾銀行本店」があり、31箇所の支店と1箇所の出張所が置かれていた。
トラック諸島の夏島にも支店或いは出張所が置かれていたようであるが、詳細は不明である。

旧台湾銀行 旧台湾銀行 この「金庫室」は、夏島の「台湾銀行(支店もしくは出張所)」で使用されていたようである。正面の「二階建民家(住宅)」は戦後に建てられた。現在、「金庫室」は「住宅」の一部となり、物置として利用されている。

「金庫室」は鉄筋コンクリート製の1階建ての建屋で、後方に2箇所の窓がある。(←)

窓には鉄扉が備えられている。(→)
トラック諸島を始め、太平洋各地に建設された海軍施設の多くには、防弾を考慮した鉄扉が装備されていたが、この「金庫室」の鉄扉は、防弾ではなく防犯を考慮したものであろう。

旧台湾銀行 旧台湾銀行 「金庫室」以外の建物は特に遺されておらず、周辺は現地人の「住宅」が数軒建っている。

「金庫室」の出入口は「住宅」の内部にある。(←)
当時のものと思われる頑丈な鉄扉とかんぬきが遺されている。

「金庫室」の内部は物置として利用されているが、奥には当時の「金庫」が遺されている。戦後、一度も開けられた事が無いそうである。(→)

旧台湾銀行 旧台湾銀行 「住宅」は現地人の家族が生活している。(←)
この「住宅」がいつ頃建てられたかは詳細不明である。2階建ての大きな「住宅」なので、割と裕福な家族なのかもしれない。「金庫室」の内部を見るには「住宅」の中からしか行けないが、見学料を支払えば快く見せてくれる。

「住宅」の側に「レール」が遺されている。(→)
日本統治時代に軽便鉄道を敷設する計画があったようであり、その時に準備された「レール」だと思われる。
同様の「レール」が、夏島北東端の「海軍無線塔土台跡」の近くにも遺されている。

「旧台湾銀行」の歩き方

夏島の北岸近くの住宅の敷地内にある。

旧台湾銀行 旧台湾銀行 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所がある。道なりに進み、左に曲がりきった辺りの右手に、手入れされた広い芝生あり、「二階建て住宅」が建っている。この「住宅」のすぐ裏側が「旧台湾銀行」である。
また、「住宅」のすぐ前の道の脇に「レール」2本が置かれている。

尚、この道を更に進むと「T字路」があり、まっすぐ進む(南向き)と「旧日本軍陸橋」があり、「T字路」を左折(東向き)すると「第四艦隊司令部跡地」や「海軍病院跡」がある。

「旧台湾銀行」は「住宅」の一部になっており、現在は住民が生活している。写真撮影や建物内の見学をしたい時は、住民の方に見学料として1人5ドルを支払う。
現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「記念碑」「建物の土台(第四艦隊司令部跡地)」

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 夏島北東部の「民家」の敷地に「記念碑」「建物の土台」が遺されている。(←)

大東亜戦争中、この付近には日本海軍の第四艦隊司令部が置かれていた。
第四艦隊(3代目)は、昭和14年(1939年)11月15日に編成され、内南洋(委任統治領南洋群島)の防衛を任務としていた。その為、隷下に第三〜第六の各根拠地隊を持っていた。

「碑」は「民家」の庭先に遺されている。(→)

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 「碑」の表には行書で歌が彫られており、「歌碑」である事が分かる。(←)

「碑」の裏には、海軍中将武田盛治 建立 昭和  仲夏 と彫られている。(→)
仲夏は陰暦の5月(夏の半ば)を指す。

武田中将は、昭和17年(1942年)6月15日から昭和18年(1943年)7月14日まで第四根拠地隊司令官であり、第二海上護衛隊司令官も兼任していた。
尚、武田中将が第四艦隊司令長官であったというネット上の情報も見受けられるが、これは誤りである。

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 第四根拠地隊は第四艦隊隷下の部隊で、トラック諸島の防備を担当していた。指揮下の部隊は時期によって変わるが、第四通信隊・第四港務部は第四根拠地隊隷下であった。
尚、夏島中部に「第四通信隊跡地」が遺されている。

周辺にはコンクリート製の「建物の土台」多数が遺されている。(←)(→)

当時、この一帯には第四艦隊司令部があり、12m×36mの建屋が4棟と小型の建屋が9棟あり、これらはほぼ全て木造であった。

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 遺されている「土台」は、第四艦隊司令部の建屋の「土台」である。建屋は木造であった為、現在は失われている。当時は、湿気などを考慮し、コンクリート製の「土台」の上に建屋が建てられたと考えられる。

現在、「土台」の一部は現地人の「民家の土台」として利用されている。(←)

付近にはコンクリート製「貯水槽」も遺されている。これらも第四艦隊司令部の遺構であり、現在は現地人に利用されている。(→)

「記念碑」「建物の土台(第四艦隊司令部跡地)」の歩き方

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 夏島北東の「民家」の敷地内にある。

夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」が見えている。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」がある。「T字路」の右手には比較的大きな「平屋の建物」がある。(写真右上 →)

この「T字路」を左折して東に進む。
尚、「T字路」を真っ直ぐ南に進むと「旧日本軍陸橋」の北側に出る。

記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 記念碑・建物の土台(第四艦隊司令部跡地) 「T字路」から150m程進むと、右手(南側)にやや開けた敷地がある。道から敷地内に入る所にはコンクリート製の「門柱」がある。
(写真右下 →)

敷地内に入ると右手に「平屋の民家」が、左手に「屋根だけの建屋」がある。「平屋の民家」の左隣(南側)に「記念碑」がある。
「平屋の民家」から敷地を更に奥に行くと「トタン壁の民家」があり、その周辺には「建物の土台」多数が見える。
尚、「トタン壁の民家」の裏手(南側)が木々に覆われた小高い丘になっており、2,3分上った丘の頂上付近に「第四艦隊司令部跡(防空壕跡)」がある。

ここは、「民家」の敷地内であり、住民が生活している。写真撮影や見学をしたい時は、住民の方に見学料として1人2ドルを支払う。
現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「第四艦隊司令部跡(防空壕跡)」

第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 夏島北東部の小高い丘の上にコンクリート製の「防空壕」が遺されている。(←)

各種観光地図等ではこの「防空壕」の事を「第四艦隊司令部跡」と記載している事が多いが、「第四艦隊司令部」はこの「防空壕」も含めた一帯である。

「防空壕」は「記念碑」から近い丘の上にあり、ここからは夏島南東部が見える。(→)

第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 第四艦隊司令部跡(防空壕跡) コンクリート製の厚い壁と天蓋を持ち、天蓋は湾曲してカマボコ型になっている。また、天蓋の上には石が積まれている。(←)

この「防空壕」は、「第四艦隊司令部」の司令部要員の退避用として建てられたと思われるが、いつ頃建設されたかは詳細不明である。

出入口が一箇所あり、内部はコンクリート壁で囲まれた部屋になっている。通気孔と思われる四角い穴がある。(→)

第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 第四艦隊司令部跡(防空壕跡) カマボコ型のコンクリート製「防空壕」の真下にもコンクリートと石垣で造られた「防空壕」がある。(←)

カマボコ型「防空壕」の下を掘って造られている。入口付近の左右には石垣が積まれて虎口の様になっている。爆風の侵入を防ぐ為だろうか。

「防空壕」はコンクリート壁で囲まれ、入口から入ると鋭角に左に折れ、その先では右に鋭角に折れて内部に入っている。これも爆風の侵入を防ぐ為であろう。(→)

第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 内部はコンクリート壁で囲まれた部屋になっている。奥には通風孔と思われる四角い穴がある。(←)

通風孔の内部は横に折れてから外に繋がっている。内部には土砂が堆積している。(→)

これらは丘の上に建てられているが、窓や銃眼が無いので「トーチカ」や「監視所」ではないと思われる。「防空壕」或いは「倉庫」として使用されていたと考えられるが、当時の運用実態等は詳細不明である。

「第四艦隊司令部跡(防空壕跡)」の歩き方

夏島北東の林の中にある。

第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 第四艦隊司令部跡(防空壕跡) 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」が見えている。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」があるのでこれを左折して東に進む。150m程進むと、右手(南側)にやや開けた敷地があり、その敷地内に「平屋の民家」と「記念碑」がある。

「平屋の民家」「記念碑」から敷地を更に奥に進むと、周囲にコンクリート製の「建物の土台」が多数見えてくる。また、「トタン壁の民家」がある。「トタン壁の民家」の裏手(南側)が木々に覆われた小高い丘になっており、2,3分上った丘の頂上付近に「防空壕跡」がある。

ここは、「記念碑」のある「民家」の敷地内を通過するが、「記念碑」を見学する際に1人2ドルを支払っておけば特に問題はない。
現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「海軍防空壕」

海軍防空壕 海軍防空壕 第四艦隊司令部跡地」の付近には茂みの中にも「建物の土台」が遺されている。(←)

第四艦隊司令部跡地」から少し南に行った茂みの中に「海軍防空壕」が遺されている。(→)

この「防空壕」は、トラック諸島も含めた太平洋各地の海軍施設に遺される、三角柱型をしたコンクリート製の「防空壕(退避壕)」である。
海軍施設にはこの形状の「防空壕」が多数建設され、空襲時の「退避壕」としてや、「弾薬庫」としても使用されていた。

海軍防空壕 海軍防空壕 トラック諸島にも、夏島中部の「海軍通信隊跡地」、夏島南部の「水上機基地跡」に同形状の「防空壕」が遺されている。

この「防空壕」は夏島では最も保存状態が良く、空襲等による損傷や風化は殆ど無い。(←)
この形状の「防空壕」は中央に出入口が1箇所あり、左右端には通風孔がある。

出入口や通風孔の前には爆風避けのコンクリート壁がある。コンクリート壁に補強が入っているのが分かる。(→)

海軍防空壕 海軍防空壕 出入口や通風孔には鉄扉が備えられている。(←)

鉄扉には錠前が付いており、必要に応じて鍵がかけられるようになっていた。「弾薬庫」等として使用する場合、弾薬を取扱う兵員が鍵を管理しており、それ以外の兵員は無闇に立ち入る事は出来なかった。その為、鍵を持っている兵員が個人的な品物や食料を内部にこっそり隠しておく事もあったという。

出入口から入ると、左右の部屋に分かれており、更に鉄扉で仕切られている。(→)

海軍防空壕 海軍防空壕 当時は鉄扉の縁にゴム製パッキンが装備され、密閉出来るようになっていた。これは毒ガス等による攻撃を想定したものであった。
現在、ゴム製パッキンは失われている。(←)

左右の部屋は壁面・床面ともにコンクリート製である。コンクリート壁に入っている鉄筋が一部見えている。(→)

この形状の「防空壕」は、地上に露出している為、激しい空襲によって破壊されてしまったものが多い。

「海軍防空壕」の歩き方

夏島北東の林の中にある。

海軍防空壕 海軍防空壕 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」が見えている。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」があるのでこれを左折して東に進む。150m程進むと、右手(南側)にやや開けた敷地があり、その敷地内に「平屋の民家」と「記念碑」がある。

「平屋の民家」の向かい(東側)に「屋根だけの建屋」があり、その先に林に入る獣道の入口がある。(写真右上 →)

海軍防空壕 海軍防空壕 獣道に入ってすぐに「コンクリート製貯水槽」がある。(写真右下 →)
獣道を進むと「建物の基礎」があり、更に「屋根だけの建屋」から1,2分行った辺りの左手の林の中に「海軍防空壕」が見える。
尚、「海軍防空壕」から更に獣道を3,4分進むと広い道に出る。この道を東に進むと「海軍病院跡」がある。

ここは、「記念碑」のある「民家」の敷地内を通過するが、「記念碑」を見学する際に1人2ドルを支払っておけば特に問題はない。
現地人ガイド一緒に行くと話しがスムーズに進むだろう。決して無断で立ち入ってはいけない。

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「日本軍洞窟」

日本軍洞窟 日本軍洞窟 夏島北東部の道の脇に大東亜戦争中に日本軍が掘った「洞窟」が遺されている。(←)

大東亜戦争末期、米軍による空襲が激しくなると、地上に露出している建物は軒並み爆撃の目標となった。その為、地上に集積していた物資を隠す場所、空襲時に避難する場所が必要となった。そこで、至る所に「洞窟」を掘り、これを「倉庫」や「防空壕」として使用した。
この「洞窟」もその1つではないだろうか。

「洞窟」の内部は土砂が堆積している(→)

日本軍洞窟 日本軍洞窟 「洞窟」の前の道は夏島北東部を1周している。(←)

この道は日本統治時代に建設された道で、「第四艦隊司令部」や「海軍病院」などを結んでいた。

道の途中には「船着場」がある。(→)

海岸沿いのマングローブ林の中に、石垣で造られた護岸と桟橋が見える。日本統治時代に造られた「船着場」だろうか。

「日本軍洞窟」の歩き方

日本軍洞窟 日本軍洞窟 夏島北東の道の脇にある。

記念碑」のある「民家」の敷地から南へ向かう獣道に入り、「海軍防空壕」を超えて更に3,4分行くと、広い道に出る。この道は日本軍が建設した道である。

道に出たら左折して東に向かい、100m程(徒歩1分程)行った道の左手(北側)の土手に「日本軍洞窟」が見える。「日本軍洞窟」から更に500m程(徒歩5分程)東に向かった辺りの右手(南側)に「船着場」が見える。

尚、ここから更に東に向かうと「海軍無線塔土台」「海軍病院跡」がある。

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「海軍無線塔土台」

海軍無線塔土台 海軍無線塔土台 夏島北東部にコンクリート製の「海軍無線塔土台」が遺されている。(←)

「土台」は細長い形状をしており、上にいくほど幅が狭い。上部には溝がある。(→)

「土台」以外は遺されておらず、当時の運用状況は不明だが、現地人ガイドの話によると「無線塔」の「土台」だったそうである。

海軍無線塔土台 海軍無線塔土台 付近には「レール」数本が置かれている。(←)

この「レール」は、日本統治時代、夏島に軽便鉄道を敷設する為に日本から運ばれてきたものである。結局、夏島に鉄道が引かれる事は無かった。
尚、夏島北東部の海岸に近い「旧台湾銀行」の側にも「レール」が遺されている。

付近の民家の下にはコンクリート製の「土台」が遺されている。(→)
当時、この一帯は「海軍病院」の敷地であった。その関連施設の「土台」であろうか。

「海軍無線塔土台」の歩き方

夏島北東端にある。

海軍無線塔土台 海軍無線塔土台 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」がある。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」があるのでこれを左折して東に進む。
「T字路」から450m程行くと右手(南側・山側)に「赤城丸殉難之碑」がある。
ここから更に700m程道なりに進むと開けた場所があり、左手(東側・海側)に「教会」がある。
「教会」の手前に「海軍無線塔土台」があり、その手間の広場に「レール」がある。
尚、「海軍無線塔土台」のやや手前の右手(西側・山側)に「海軍病院跡」がある。

或いは、「海軍防空壕」から北に進んで広い道に出る。この道を東に約1km進むと「教会」が右手(東側・海側)に見えてくる。

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「海軍病院跡」

海軍病院跡 海軍病院跡 夏島北東端に「海軍病院跡」が遺されている。(←)

大東亜戦争中、ここには第四艦隊付属の第四海軍病院が置かれており、この「病院跡」はその病棟や関連施設であった。「第四海軍病院」は、トラック諸島で最大の病院で、約800名の患者の診察・治療・収容が可能であった。

当時、建屋は木造であった為、現在は失われており、コンクリート製の「土台」「階段」「門柱」のみが遺されている。(→)

海軍病院跡 海軍病院跡 第四海軍病院では、大東亜戦争末期、軍医などの病院関係者による米軍捕虜殺害が行われた。

これは、昭和19年(1944年)1月30日、「海軍病院」に於いて米軍捕虜4名に対する生体解剖が行われ、内2名はこの時に死亡、残る2名も後に殺害され、更に別な4名にもブドウ球菌を注射して殺害したというもので、2月事件と呼ばれている。
更に、昭和19年(1944年)7月22日、米軍捕虜2名が「海軍病院」の裏の丘連行され、銃剣等で刺突及び斬首されてで殺害されたというもので、7月事件と呼ばれている。

海軍病院跡 海軍病院跡 これら一連の事件の関係者は戦後に米軍によるBC級戦犯裁判によって処罰を受けたが、この裁判は、米軍の粗雑な取調べや報復的な判決、更には日本軍関係者同士の内輪もめなどにより、決して公平な裁判とは言えず、事件に対して責任の無い元第四艦隊司令長官小林仁海軍中将までもが有罪判決を受けることになった。

併しながら、第四海軍病院の関係者によって米軍捕虜が殺害されたのは事実であり、一部の日本軍将兵によってかかる残虐行為が行われた事は誠に遺憾であり、祖国に殉じた他の多くの日本軍将兵の想いを踏みにじるものである。

「海軍病院跡」の歩き方

夏島北東端にある。

海軍病院跡 海軍病院跡 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」がある。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」があるのでこれを左折して東に進む。
「T字路」から450m程行くと右手(南側・山側)に「赤城丸殉難之碑」がある。
ここから更に700m程道なりに進むと開けた場所があり、左手(東側・海側)に「教会」がある。
「教会」のやや手前の右手(西側・山側)に「海軍病院跡」がある。
尚、「海軍病院跡」のやや先の「教会」の側に「海軍無線塔土台」がある。

或いは、「海軍防空壕」から北に進んで広い道に出る。この道を東に約1m進むと「教会」が右手(東側・海側)に見えてくる。

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「赤城丸殉難之碑」

赤城丸殉難之碑 赤城丸殉難之碑 夏島北東部の道の脇の墓地に「赤城丸殉難之碑」が建てられている。(←)(→)
「赤城丸」は、昭和11年(1936年)9月10日、日本郵船の大型貨物船として竣工し、欧州航路に就航した。昭和16年(1941年)11月23日に海軍に徴庸され、特設巡洋艦に改装された。同年12月8日の大東亜戦争開戦後は第五艦隊第二二戦隊に編入され、特設砲艦や特設監視艇の支援を行った。昭和18年(1943年)10月には特設巡洋艦から特設運送船に艦籍が変更され、輸送任務に従事した。
昭和19年(1944年)1月24日に神奈川県の横須賀軍港を出航、2月1日にトラック泊地に入港した。

赤城丸殉難之碑 赤城丸殉難之碑 「赤城丸」は、練習巡洋艦「香取」・駆逐艦「野分」「舞風」と第四二一五船団を編成、2月17日04時30分、船団はトラック泊地を出航、この時、「赤城丸」には内地に引揚げる民間人25人も乗船していた。
しかし、船団がトラック泊地を出航した直後、米艦載機の空襲が開始された。折しも米海軍によるトラック大空襲(ヘイルストーン作戦)と重なってしまったのである。06時30分には何とか北水道を通過するも、07時30分、遂に「赤城丸」に爆弾が命中、10時頃までに次々と被弾し、航行不能となって沈没した。
この時、多くの生存者は「香取」に救助され、「野分」「舞風」と共に北方への脱出を図った。

赤城丸殉難之碑 赤城丸殉難之碑 しかし、トラック諸島の北東には強力な米海軍艦隊(戦艦2隻・重巡2隻・駆逐艦4隻)が待ち伏せていた。その戦力差は歴然としており、「香取」「舞風」は忽ち撃沈され、移乗していた「赤城丸」の乗組員788名・便乗者565名(民間人を含む)も戦死した。

「赤城丸殉難之碑」は、この時に家族を亡くした橋口茂と息子の橋口茂人によって、昭和47年(1972年)5月20日に建立された。(←)(→)
橋口茂は、戦前・戦中、夏島で民芸品の材料を扱う橋口商店を経営していたが、戦後、米軍の命令によって日本に送還された。

赤城丸殉難之碑 赤城丸殉難之碑 この時、橋口茂には現地人との間にもうけた子供がおり、その子供がShigeto Hashiguchi(橋口茂人)であった。Shigetoは、その後、日本に渡航して父親茂と再会、この時の茂からの援助を元手に春島で商店経営を始めた。

この商店が春島市街地にある「シゲトストア」である。「シゲトストア」は、チューク諸島有数の商店として今日に至っている。(←)(→)
Shigeto Hashiguchiは、平成 年(  年) 月 日に何歳で世を去ったが、「シゲトストア」は現在もハシグチファミリーの子供たちよって経営されている。

「赤城丸殉難之碑」の歩き方

夏島北東端にある。

赤城丸殉難之碑 赤城丸殉難之碑 夏島北岸の船着場から西に250m程行くと道が左に曲がる場所があるので道なりに南に進む。道の右手(西側)には「旧台湾銀行」がある。「旧台湾銀行」から300m程行くと「T字路」があるのでこれを左折して東に進む。
「T字路」から450m程行くと右手(南側・山側)に「赤城丸殉難之碑」がある。

尚、ここから更に700m程道なりに東に進むと開けた場所があり、左手(東側・海側)に「教会」がある。「教会」の側に「海軍無線塔土台」があり、「教会」のやや手前の右手(西側・山側)に「海軍病院跡」がある。

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