鉄橋建設前に先立って建設された木造橋の残骸である。クウェー川は急流で鉄橋建設が難航したため、まず資材運搬用の木造橋が建設され昭和17年(1942年)12月に完成した。(←)
鉄橋の完成は翌年の5月に完成したが、その後も木造橋は残された。しかし、戦後の1946年の大雨による増水で流されてしまい、現在は岸に残骸が残っているのみである。(→)
橋の手前には泰緬鉄道建設に従事する連合軍捕虜と監視の日本軍兵士が再現されている。(←)
泰緬鉄道の全体図で再現されている。木造橋は連合軍の爆撃で破壊されては復旧を繰り返した。結局連合軍は鉄道輸送を完全に途絶することはできなかったと言われている。(→)
この蒸気機関車は「クウェー川鉄橋駅」に静態保存されているもののように塗装されておらず、錆びている。戦後タイ国鉄で使用された蒸気機関車もあったが、損傷の大きいものはそのまま放置された。詳細な説明はないがその一両なのかもしれない。(←)
木造橋のすぐ東側には捕虜収容所があった。捕虜収容所は現在マーケットとなっている。捕虜収容所の再現である。(→)
なお、鉄橋の北東側には高射砲陣地があったが、こちらは空き地となっている。
捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の爆撃で外れた爆弾が落ちて多数の死者が出ることがあった。誤爆された捕虜の様子が再現されている。(←)
カンチャナブリーで発掘された複数の連合軍兵士の遺骨がガラスケースの中に収められている。遺骨を直接載せることは差し控える。(→)
当初5年はかかるといわれた工事は、過酷な労働によってわずか17ヶ月で完了した。しかし、特に建設の後半は雨季と重なり、コレラ、マラリアの伝染病が蔓延し、食糧不足とあいまって多くの死者を出した。
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小銃類の収集点数はかなり多い。こちらは日本軍のもののようである。(←)
こちらは連合軍の小銃のようである。(→)
軍刀である。20世紀の兵器の進化により、第二次世界大戦時には軍刀を運用していたのは少数国であった。さらに常勤時も軍刀を常に佩用していた日本の陸海軍は更に異端であった。(←)
銃剣の取り付けられた小銃である。この銃の型式は不明であるが、当時の日本軍歩兵の主要装備であった「三八式歩兵銃」は元々馬上の騎兵に届くように設計されたため、着剣時の全長は1663mmもの長さがあった。(→)
拳銃である。当時、日本軍士官が装備する護身用拳銃は軍服や軍刀などと同じく私物・自費調達の「軍装品」扱いであったため、国産拳銃のほか輸入拳銃も使われていた。(←)
砲弾である。(→)
米軍の機関銃であるが、型式等は不明である。(→)
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日本軍士官の冬季用防寒コートである。(→)
日本軍の鉄帽である。当時は昭和5年(1930年)に制式採用された「九〇式鉄帽」が普及数において日本軍の主力ヘルメットであった。昭和13年(1938年)には小銃弾への耐久性を強化した後継の「九八式鉄帽」が制式採用された。この二つのうちのどちらかであると思われる。(←)
なんと、英軍のヘルメットが10アメリカドルで販売されている。他にも入り口チケット売り場で歴史的遺物が販売されていた。(→)
工具類である。重機の少なかった日本軍は硬い岩盤を手掘りでくりぬいて鉄道路を切り開いた。(→)
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軍用車両のようであるが、詳細不明である。フロントガラスのところに英国国旗のマークがついているが、中に乗っている人形は日本軍兵士のようである。他にも車両が展示されている。(←)
日本軍のバイクである。伝令や偵察、輸送に幅広く使用された。(→)
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