牛平原周辺

テニアン島

テニアン島の戦跡
大東亜戦争におけるテニアン島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

テニアン島の戦跡

テニアン島北部の戦跡:牛平原周辺(日本軍牛飛行場跡)

牛平原周辺(日本軍牛飛行場跡) 牛平原周辺(日本軍牛飛行場跡)

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略
日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡
日本軍発電所跡
日本軍航空隊司令部庁舎
日本軍牛飛行場駐機場跡
日本軍防空壕跡
日本軍飛行場指揮所跡
米軍記念碑

「日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略」

「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」はテニアン島北部に建設された日本海軍の飛行場であった。

昭和12年(1937年)の「支那事変」勃発以後、対米関係は悪化の一途をたどった。この状況を鑑みた日本海軍では南方諸島の防備強化や飛行場の建設を開始した。
昭和14年(1939年)10月、日本海軍からの要請を受けた司法省は、「横浜刑務所」を拠点として全国から選抜した受刑者約2000名を、行場建設の設営隊員として南方諸島へ派遣する事を決定した。派遣される囚人部隊は「南方赤誠隊」と命名され、テニアン島・ウォッジェ島への派遣が開始された。

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 昭和14年(1939年)12月22日、テニアン島に赤誠隊(職員56名・受刑者300名)が到着、以後、更に約1000名が派遣され、テニアン島北部に飛行場建設が開始された。
作業は酷暑や風土病に悩まされながらも職員・受刑者一丸となっての突貫工事が行われた。

昭和16年(1941年)10月23日、全工事が竣工した。就業延人員は38万7807名であり、1450mの滑走路を持つ南洋諸島最大の飛行場であった。(←)
完成後は日本海軍の管轄する「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」と命名された。

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 大東亜戦争開始後、暫くの間は航空機の配備は無かったが、昭和19年(1944年)2月19日、中部太平洋方面の防備強化に伴い、日本海軍第一航空艦隊の進出が開始された。

併しながら、2月22日〜23日、米海軍の空襲によって進出直後の第一航空艦隊は大きな損害を出し、「牛飛行場」も大きな損害を受けた。5月、「渾作戦」に於いて一航空艦隊は多数の航空機・搭乗員を喪失。
6月11日〜13日、マリアナ諸島に米海軍機動部隊が来襲、第一航空艦隊と「牛飛行場」は激しい空襲を受けた。続く19日〜20日、第一航空艦隊の残存航空機は「マリアナ沖海戦」に呼応して出撃するも、殆ど戦果を挙げられないままに壊滅した。

昭和19年(1944年)7月24日、遂に米軍はテニアン島への上陸を開始した。テニアン島北部の「チュルビーチ」に上陸した米軍は、24日夜の日本軍の大規模な夜襲を退け、25日には「牛飛行場」を占領した。8月1日、米軍はテニアン島を占領した。
「牛飛行場」は米海軍第107設営大隊によって改修・拡張され、「ノース・フィールド飛行場」として運用された。

「日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略」の歩き方

テニアン島の北部、「ノース・フィールド飛行場」の北西側である。

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)概略 テニアン空港」を出て「ブロードウェイ」を北上する。約6.8km進んだアメリカ記念碑のロータリーを越えて道なりに進む。
約2.5km進むと、「BLOW HOLE(潮吹き海岸)」と「RUNWAY ABLE(エーブル滑走路)」の看板のある小さな十字路がある。この十字路を左折し、その先の突き当りを右折すると「エーブル滑走路跡」の東端にでる。

エーブル滑走路跡」を西に進んだ一帯が「日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)跡」である。

8番街(8th Ave.)」からいく場合は、「米海軍第107設営大隊記念碑」から北上し、「LVT」のロータリーを越えて道なりに進む。

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「日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡」

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)跡」の北東に「日本軍燃料庫跡」「日本軍弾薬庫跡」が遺されている。

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 「日本軍燃料庫跡」である。(←)

天然の地形を利用して建設されている。
即ち、珊瑚礁の崖に挟まれた谷を「燃料庫」への通路として利用し、「燃料庫」は谷の奥に造られた。
これは、貯蔵された燃料に火災が発生した際、被害を極限する為の配慮である。

「燃料庫」の入口も分厚い鉄筋コンクリートに覆われた堅牢な造りで、扉も2重になっているのが分かる。(→)

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 「燃料庫」は米軍上陸直後に火災が発生し、その火勢の為に米軍も近寄ることが出来なかったという。

内部は燃料用のドラム缶が散乱し、天井に設置されたクレーンのレールが飴の様に曲がっている。また、コンクリート製の内壁も剥げ落ち、火災の激しさがよく分かる。しかし「燃料庫」自体はほぼ原型を保っており、造りの堅牢さが伺える。(←)

米軍占領直後の「燃料庫」。
周辺の地形がよく分かる。(→)

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 「日本軍弾薬庫跡」である。(←)
「弾薬庫」は「燃料庫」の西側に造られ、「燃料庫」同様、天然の谷を通路として周辺から隔離されている。

米軍上陸前の砲爆撃か、或いは米軍上陸後の戦闘によって「弾薬庫」内の弾薬が誘爆し、「弾薬庫」は大きく破壊され、現在は入口付近の瓦礫のみが遺されている。

鉄筋コンクリート製の壁の厚みがよく分かる。(→)

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 「日本軍弾薬庫跡」の周辺には多数の爆弾が遺されている。(←)

懸架用の環が装備されている事から航空爆弾であると思われる。日本軍、米軍、何れの爆弾であるかは不明である。殆どは前後に2分割されている。

米軍占領直後の「弾薬庫」。(→)
天井や壁が吹き飛び、辛うじて入口付近のみが残っているのが分かる。

「日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡」の歩き方

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の北東、「原爆ピット」の南東の森の中にある。

エーブル滑走路跡」の北側を東西に走る舗装道路から森の中に入る小さなダート道がある。
ダート道の入口は「原爆ピット」の南側の入口を目印にするとわかりやすい。

原爆ピット」の南側の入口から東に250m程進んだ右手の森の中、又は、「CHULU BEACH」と「ATOMIC BOMB PIT」の看板から東に500m程進んだ右手の森の中にダート道の入口がある。

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 左の写真の様に、ダートの入口から奥には戦跡看板が見えている。看板のある場所は森が開けた小さな広場になっている。(写真左 →)

この看板のある広場から右側(東)にダート道が続いている。ダート道に従って10m程進むと、左に折れている。その先は両側が崖に挟まれた谷になっている。

更に道なりに進むと、前方に「燃料庫跡」が見えてくる。(写真右 →)
ダート道はここで行き止まりになっている。

日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 日本軍燃料庫跡、日本軍弾薬庫跡 「弾薬庫跡」は「燃料庫跡」の西の谷にある。

戦跡看板のある広場から森の中に入る。
左の写真の様に、看板の左後ろの松の木の左あたりから森の中に入る。(写真左 →)

森の中を真っ直ぐ10〜20m程進む。はっきりした道は無く、足元に注意が必要である。
やがて、右の写真の様に、両側が崖に挟まれた谷になる。(写真右 →)

藪や蔦をかき分けてこの谷を進むと、右側に多数の爆弾やコンクリート片がある。その先に「弾薬庫跡」の入口のコンクリート製の壁と柱が見える。

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「日本軍発電所跡」

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)跡」の一画に「日本軍発電所跡」が遺されている。
「発電所」は「発電機室」「燃料油貯蔵庫」「冷却水槽」から成っていた。

日本軍発電所跡 日本軍発電所跡 「燃料油貯蔵庫跡」である。(←)

「燃料油貯蔵庫跡」はコンクリート製で、内部には発電用ディーゼル燃料タンク2基が据付られている。その前には「戦跡看板」が建てられている。

「燃料油貯蔵庫跡」の向かいに「発電機室跡」が遺されている。(→)
「発電機室跡」は堅牢なコンクリート製2階建で、窓や扉も鉄製であるが、大小多数の弾痕が遺されている。

日本軍発電所跡 日本軍発電所跡 付近にはコンクリート製の「冷却水槽槽跡」が遺されている。内部は6つに仕切られている。(←)

これら日本軍発電所の建物・施設は昭和19年(1944年)6月11月〜13日の米海軍機による空襲と艦砲射撃によって大きな損害を受けた。
特に「発電機室跡」には大きな破孔が遺されている。爆弾か砲弾の直撃を受けたものだろうか。(→)

同様の「発電所跡」がサイパン島サイパン国際空港周辺にも遺されており、こちらは、外観は原型を保っている。(発電所跡詳細

日本軍発電所跡 日本軍発電所跡 他にも、パラオ諸島ペリリュー島にも同様の「発電所跡」が遺されている。
この様式は、日本海軍が島嶼に「発電所」を建設する際の共通の仕様であったと考えられる。

「発電機室跡」の内部は2階まで吹き抜けで、頑丈な柱で支えられている。(←)

米軍がテニアン島を占領した後に撮影された「発電機室」である。(→)
米軍も「建物」を使用していた事が分かるが、破孔や弾痕が修復されていない為、「発電所」としては機能していなかったと思われる。

「日本軍発電所跡」の歩き方

日本軍発電所跡 日本軍発電所跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の北東、「原爆ピット」の南の森の中にある。

エーブル滑走路跡」の北側を東西に走る舗装道路から森の中に入る小さなダート道がある。
ダート道の入口は「原爆ピット」の南側の入口を目印にするとわかりやすい。

原爆ピット」の南側の入口を背にして右(西)に20m程進んだ左手の森の中、又は、「CHULU BEACH」と「ATOMIC BOMB PIT」の看板から東に230m程進んだ右手の森の中にダート道の入口がある。

日本軍発電所跡 日本軍発電所跡 ダート道に入るとすぐ左手に戦跡看板がある。
戦跡看板の少し先の右手にはコンクリート製の「水タンク跡」がある。

ここから更に進むと木が開けた場所があり、右手に「発電機室跡」、左手に「燃料油タンク庫跡」がある。
「発電機室跡」と「燃料油タンク庫跡」の間にもう1つ戦跡看板がある。

この周辺は木が生い茂っており、「建物跡」の周辺も草や蔦が多数ある為、足元には十分な注意が必要である。

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「日本軍航空隊司令部庁舎跡(第一航空艦隊司令部跡)」

日本軍牛飛行場(ハゴイ飛行場)跡」の一画に「日本軍航空隊司令部庁舎跡」が遺されている。
この建物には、昭和19年(1944年)2月以降、角田覚治中将指揮下の第一航空艦隊司令部が置かれた。

日本海軍連合艦隊の 「『あ』号作戦」に於いて、第一航空艦隊司令部は中部太平洋方面の基地航空隊を指揮下に置いていた。
併しながら、第一航空艦隊は「『あ』号作戦」と前後して行われた米海軍の空襲によって壊滅した。
残存の搭乗員・整備員・司令部職員も、その後、テニアン島で米軍との戦闘によって玉砕した。

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 「日本軍航空隊司令部庁舎跡」は建物そのものは戦前に造られた。その為、土台にアーチ型の装飾があるなど外観に気を配った造りになっている。(←)

結果、この「日本軍航空隊司令部庁舎跡」は、周辺の他の建物跡と一線を隔す独特の存在感を放っている。

「司令部庁舎跡」の大部分はコンクリート製の柱で2階部分を支える造りになっており、分厚いコンクリート製の外壁などは少ない。(→)

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 コンクリート製の壁と天井以外は失われており、「司令部庁舎跡」の殆どは外から内部が見える。(←)
あまり防御を考慮していない建物であり、空襲や艦砲射撃に耐える事は困難であっただろう。

「司令部庁舎跡」は2階建であり、立派な階段が遺されている。(→)
かつては装飾も施され、また、司令部職員が忙しく行き来していたのだろうか。

尚、まったく同形状の司令部庁舎が、パラオ諸島ペリリュー島にも遺されている。

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 2階も1階とほぼ同じ間取りをしている。(←)

2階の端はバルコニーのようになっており、そこからは「日本軍牛飛行場駐機場跡」が見える。(→)

かつて、この場所からは、目前に広がる「牛飛行場」の駐機場と滑走路が見渡せたはずである。そしてそこには日本海軍航空隊の精鋭がずらりと列線を敷き、祖国日本に迫ろうとする米軍をここで食い止めるべく、決死の覚悟で飛び立っていった。

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 併しながら、連合艦隊は 「『あ』号作戦」に大敗、第一航空艦隊も多数の飛行機と搭乗員を失った。テニアン島には米軍が上陸。日本軍将兵は玉砕し、後には廃墟となった「司令部庁舎」だけがあった。(←)

「司令部庁舎」はその後、修復されることもなく、また米軍が日本軍の「牛飛行場」を拡張して 「ノース・フィールド飛行場」を建設した際に取り壊される事もなかった。当時の姿のままで、今も遺されている。(→)

「日本軍航空隊司令部庁舎跡(第一航空艦隊司令部跡)」の歩き方

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の直ぐ北、「原爆ピット」の南西にある。

原爆ピット」の南側の入口から舗装道路を西に約250m進んだ所に 「CHULU BEACH」と「ATOMIC BOMB PIT」の看板がある。(→)

看板のある場所に、舗装道路から森の中に入るやや大きめのダート道がある。

このダート道を進んでいくと左手に「日本軍航空隊司令部庁舎跡(第一航空艦隊司令部跡)」が見えてくる。

日本軍航空隊司令部庁舎跡 日本軍航空隊司令部庁舎跡 「日本軍航空隊司令部庁舎跡(第一航空艦隊司令部跡)」の先には「日本軍牛飛行場駐機場跡」が見える。

エーブル滑走路跡」の西端から東に約550mの場所に北に行く道がある。この道を進むと「日本軍牛飛行場駐機場跡」の南側にでる。

日本軍牛飛行場駐機場跡」の北側に「日本軍航空隊司令部庁舎跡(第一航空艦隊司令部跡)」が見える。

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「日本軍牛飛行場駐機場跡」

日本軍牛飛行場駐機場跡 日本軍牛飛行場駐機場跡 「日本軍牛飛行場駐機場跡」が遺されている。

現在では密林の中に長方形の舗装部分があるだけだが、当時はこれに隣接して日本軍の「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」の扇形の滑走路があった。
また、滑走路と駐機場の間には「飛行場指揮所(ピスト)」があり、現在も「飛行場指揮所跡」残されている。(←)

「日本軍牛飛行場駐機場跡」の北側には「日本軍航空隊司令部庁舎跡」が見える。(→)

日本軍牛飛行場駐機場跡 日本軍牛飛行場駐機場跡 「日本軍牛飛行場駐機場跡」の西端には「防空壕跡」が見える。当時は多数設置されていたが、米軍の攻撃で破壊されたり、飛行場の拡張の際に、取り壊された。(←)

上空から「日本軍牛飛行場駐機場跡」を見る。「エーブル滑走路跡」(写真中央)の右側(北側)に小さく見える奥の長方形の広場である。(→)
手前の長方形の広場は「ノース・フィールド飛行場跡」の「整備場跡」である。

「日本軍牛飛行場駐機場跡」の歩き方

エーブル滑走路跡」の北、 「原爆ピット」の南にある。

日本軍牛飛行場駐機場跡 日本軍牛飛行場駐機場跡 原爆ピット」の南側の入口から舗装道路を西に約250m進んだ所に 「CHULU BEACH」と「ATOMIC BOMB PIT」の看板がある。

看板のある場所に、舗装道路から森の中に入るやや大きめのダート道がある。

このダート道を進んでいくと左手に「日本軍航空隊司令部庁舎跡」が見えてくる。

日本軍航空隊司令部庁舎跡」を越えて進むと広場が見えてくる。この広場が「日本軍牛飛行場駐機場跡」である。

日本軍牛飛行場駐機場跡 日本軍牛飛行場駐機場跡 エーブル滑走路跡」の西端から東に550m程の場所に北に行く道がある。この道を進むと「日本軍牛飛行場駐機場跡」の南側にでる。

「日本軍牛飛行場駐機場跡」は、東西220m程・南北90m程の長方形をしており、西端に「日本軍防空壕跡」、南東端に「日本軍飛行場指揮所跡」がある。また、周囲には「米軍記念碑」が建てられている。

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「日本軍防空壕跡」

日本軍防空壕跡 日本軍防空壕跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の西端に2ヶ所の「日本軍防空壕跡」が遺されている。(←)

「防空壕跡」はサイパン島・テニアン島に数多く見られる形状で、細長い三角柱を寝かした形をしたコンクリート製の防空壕である。(→)

地下ではなく地上に作られている。その為、上空から発見され、空襲や艦砲射撃に晒される危険があった。 コンクリート製といえども、あらゆる攻撃に耐えられる訳ではない。

日本軍防空壕跡 日本軍防空壕跡 制空権・制海権の無い状態では、地上に露出した陣地・建造物は必ず攻撃の対象になり、破壊されてしまう。実際、多くの防空壕が米軍の空襲で破壊された。(←)

入口には鉄の扉があり、当時は隙間にゴム製パッキンが装備され、毒ガスの攻撃にも耐えることが出来た。 扉の前には爆風よけのコンクリート製防壁が造られている。ここにある防壁は3ヶ所の補強がある。
サイパン島の 「サイパン国際空港周辺」に遺されている「防空壕跡」とほぼ同形状である。(→)

「日本軍防空壕跡」の歩き方

日本軍防空壕跡 日本軍防空壕跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の西端にある。

2ヶ所の「防空壕跡」が並んでいる。

「防空壕跡」の側には「AIR RAID SHELTERS」と書かれた戦跡看板がある。

また、「防空壕跡」の前に「米陸軍第509混成航空群記念碑」「米陸軍第6爆撃航空群記念碑」が建てられている。

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「日本軍飛行場指揮所跡」

日本軍飛行場指揮所跡 日本軍飛行場指揮所跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の南東端に「日本軍飛行場指揮所跡」が遺されている。(←)

一部の案内には「旧日本軍爆風対策建物跡」と記載されているが、この建物は「日本軍の飛行場指揮所(ピスト)」である。

日本軍が「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」を使用していた当時、この「指揮所」のすぐ西(写真手前)が駐機場、すぐ南(写真右側)が滑走路であった。(→)

日本軍飛行場指揮所跡 日本軍飛行場指揮所跡 空襲を意識したものであろうか、壁は厚いコンクリートであり、窓やドアは堅牢な鉄製である。建物に大きな損傷は見られない。(←)

米軍はテニアン島を占領後、日本軍の「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」を拡張し、「ノース・フィールド飛行場」を建設した。
その後、米軍もこの「建物」を飛行場指揮所として使用していた。(→)

尚、まったく同形状の司令部庁舎が、サイパン島の 「サイパン国際空港周辺」や、パラオ諸島ペリリュー島にも遺されている。

「日本軍飛行場指揮所跡」の歩き方

日本軍飛行場指揮所跡 日本軍飛行場指揮所跡 日本軍牛飛行場駐機場跡」の南東端にある。

「日本軍飛行場指揮所跡」の前には「AIR OPERATIONS BUILDING」と書かれた戦跡看板がある。

また、側に「米陸軍第504爆撃航空群記念碑」が建てられている。

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「米軍記念碑 」

米軍記念碑 米軍記念碑 日本軍牛飛行場駐機場跡」の周囲には「米軍記念碑」が多数建てられている。これらは戦後に米軍によって建てられたものである。(←)

「米第4海兵師団記念碑」(→)

米第4海兵師団は、テニアン島・サイパン島・硫黄島の上陸作戦に参加した。「記念碑」は、昭和63年(1988年)7月、第4海兵師団協会によってテニアン島に於ける作戦の戦没者を記念する為に建てられた。

米軍記念碑 米軍記念碑 「米陸軍第509混成航空群記念碑」(←)
米陸軍第509混成航空群は、原子爆弾の運用を目的とした部隊であった。広島・長崎に原子爆弾投下したのはこの部隊に所属する「B-29」であった。

「記念碑」には原子爆弾投下が、戦争終結を早め、大勢の人命を救ったという、原子爆弾投下を正当化する文章が刻まれている。(→)

米国は世界で唯一、大都市の非武装の一般市民に対して核兵器を使用した国である。

米軍記念碑 米軍記念碑 「米陸軍第6爆撃航空群記念碑」(←)
米陸軍第6爆撃航空群は、米陸軍第313爆撃航空団隷下の部隊として、第24・第39・第40爆撃航空隊を擁して「ノース・フィールド飛行場」に展開、「B-29」による日本本土への空襲を行った。
昭和20年(1945年)3月10日以降、日本の各都市への無差別絨毯爆撃を開始し、数十万人の一般市民を殺傷した。

米陸軍第6爆撃航空群所属の「B-29」の垂直尾翼には、識別記号の〇にRが描かれた。(→)

米軍記念碑 米軍記念碑 「米陸軍第504爆撃航空群記念碑」(←)(→)

米陸軍第504爆撃航空群は米陸軍第313爆撃航空団隷下の部隊として、第421・第398・第930爆撃航空隊を擁して「ノース・フィールド飛行場」に展開、「B-29」による日本本土への空襲を行った。
垂直尾翼の識別記号は〇にE。

「記念碑」には、米国の勝利に貢献する為に戦没した将兵を記念する文章が刻まれている。

米軍記念碑 米軍記念碑 「米陸軍第505爆撃航空群記念碑」(←)

米陸軍第505爆撃航空群は米陸軍第313爆撃航空団隷下の部隊として、昭和19年(1944年)12月に「ノース・フィールド飛行場」に進出、以後「B-29」による日本本土への空襲を行った。
垂直尾翼の識別記号は〇にW。(→)

「記念碑」の横には、米陸軍第505爆撃航空群所属の戦死者・行方不明者の名前が刻まれている。

米軍記念碑 米軍記念碑 「米陸軍第9爆撃航空群記念碑」(←)
米陸軍第9爆撃航空群は米陸軍第313爆撃航空団隷下の部隊として、昭和19年(1944年)12月に「ノース・フィールド飛行場」に進出、以後「B-29」による日本本土への空襲を行った。
垂直尾翼の識別記号は〇にX。

「米海軍第67設営大隊記念碑」(→)
テニアン島には、12個(第9・第13・第18・第38・第50・第67・第92・第107・第110・第112・第121・第135)の米海軍設営大隊(SeaBee)が進出し、飛行場・道路・兵舎等の建設を行った。 尚、テニアン島中部には「米海軍第107設営大隊記念碑」がある。

「米軍記念碑 」の歩き方

米軍記念碑 米軍記念碑 日本軍牛飛行場駐機場跡」の周囲にある。

「米陸軍第509混成航空群記念碑」「米陸軍第6爆撃航空群記念碑」は、「日本軍防空壕跡」の側にある。

「米陸軍第504爆撃航空群記念碑」は、「日本軍飛行場指揮所跡」の側にある。

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