カグマン半島

サイパン島

サイパン島の戦跡
大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

サイパン島東部:カグマン半島

カグマン半島 カグマン半島

タンクビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)
ラウラウビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)
カグマン飛行場(East Field)跡地
南洋興発建物跡
ゴルフ場のM5軽戦車

「タンクビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)」

「タンクビーチ」はカグマン半島東部の幅700m程度の砂浜である。ここには米軍は上陸しなかったが、日本軍が防衛のために築いた2つの「トーチカ」が遺されている。

タンクビーチの日本軍トーチカ タンクビーチの日本軍トーチカ 海岸の南東側の「トーチカ@」である。(←)

岩山の側面に設置され、壁面は石を積んで間にコンクリートで接着したような造りをしている。資材不足でコンクリートを節約したものと考えられる。海側から見ても比較的分かりやすい。

銃眼が1つと監視孔が1つある。(→)
銃眼は北西の砂浜を指向している。形状は横に細長く、軽機関銃用だったのかもしれない。内部は土砂に埋もれているようである。

タンクビーチの日本軍トーチカ タンクビーチの日本軍トーチカ 右側に回りこむと、もともとの岩山と石を積み上げて作った壁面の間に隙間が開いているのが分かる。脆そうであり、あまり頑丈そうには見えない。(←)

海岸の北西側の「トーチカA」である。こちらも天然の岩を利用して造られている。正面に銃眼が見える。(→)

岩を登ると「トーチカ」の内部に入れるが、天蓋は無く、広さは2、3人入れるかどうかの小さいものである。

タンクビーチの日本軍トーチカ タンクビーチの日本軍トーチカ 銃眼は南東側の「トーチカ@」の方向を向いている。(←)
銃眼は岩をくりぬいて造ったようであり、小さい。掩蔽壕として造られた「トーチカ」と思われる。壁の一部は石をコンクリートで固めて造られている。

北西側の「トーチカA」から南東側の「トーチカ@」の方向を見る。(→)

ちょうど左右2つの「トーチカ」で海岸を射界に収められる配置となっている。

「タンクビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)」の歩き方

サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。

タンクビーチの日本軍トーチカ タンクビーチの日本軍トーチカ 「T字路」からKagman Rd.(34号線)を約2km進むと右手に「小規模店舗」ある。
ここを越えてKagman Rd.(34号線)を250m程進むと道なりに左に大きくカーブしている。

左のカーブを曲がりきると、長い直線道路になっているので、ここを直進する。尚、この直線道路は「カグマン飛行場の滑走路跡」である。

直線道路を約1.4km進むと「T字路」につき当たる。「T字路」の向いには「中学校」がある。

この「T字路」を右折する。

タンクビーチの日本軍トーチカ タンクビーチの日本軍トーチカ 「T字路」から600m程進むと、道が右に直角にカーブしている。
ここを曲がって300m程進むと「タンクビーチ」に出る。手前に「駐車場」がある。

「タンクビーチ」に出て、海岸に向かって右手100m程の岩場に「トーチカ@」がある。
「トーチカ@」は海岸に出て直ぐに見える。

また、海岸に向かって左手200m程の岩場に「トーチカA」がある。(写真右 →)
「トーチカA」は銃眼が開いてるが、一部藪に覆われ、普通の岩山と見た目が変わらない為、見つけにくい。

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「ラウラウビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)」

「ラウラウビーチ」はカグマン半島南部の幅1kmの砂浜であり、ここには米軍は上陸してこなかった。
「ラウラウビーチ」には日本軍が防衛のために築いた2つの「トーチカ」が遺されている。1つは海岸中央に、もう1つは海岸西端にある。

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 海岸中央の「トーチカ@」である。(←)

海岸側からでは良く見ないと、ただの岩山にしか見えない。銃眼の上の部分は岩のような形状をしているが、目立たなようにするような擬装だったのであろうか。銃眼は左右に細長いものが1つであり、比較的大きい。重機関銃の設置を考慮したものであろうか。

銃眼は階段状に奥に行くほど狭くなっている。海岸に対して広い射角が得られたであろう。(→)

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 「トーチカ@」は二つの岩山を側壁として利用する形で築かれている。2つの岩山の間に正面壁と天板を付けた形である。「トーチカ@」の右手の岩山を登ると裏側に回ることができる。

正面からだと良く分からないが、裏側から見るとコンクリートの箱であることが良く分かる。(←)

裏側にはかがんでやっと入れる程度の入口がある。コンクリートの厚さは数十センチあり、かなり頑丈そうな作りである。(→)

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 海岸西端の「トーチカA」である。(←)
こちらも銃眼は1つで左右に細長い形状である。内部は土砂で埋まってしまっている。「トーチカA」は崖の斜面に作らており、上のほうから土砂が崩れたあとがあった。

「トーチカA」は海岸から20m程内陸の崖の側にある。藪の中にある為、海岸からは全く見えない。(写真右端の藪の中)(→)
一方、「トーチカA」側からは海岸が丸見えである。

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 海岸西端の「トーチカA」は石を積んで、その隙間にコンクリートを流し込んだつくりとなっている。(←)

海岸中央の「トーチカ@」がコンクリートのみで固められていたが、海岸西端の「トーチカA」はコクリートやその他資材が不足していた米軍上陸直前の時期に急増されたものなのであろうか。

「トーチカA」の上に登ると、換気口のような10cm×20cmくらいの小さい穴が開いているのを見ることができる。(→)

「ラウラウビーチの日本軍トーチカ(2ヶ所)」の歩き方

サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 「T字路」からKagman Rd.(34号線)を約2km進むと右手に「小規模店舗」ある。
この「小規模店舗」の手前から右に入る道がある。この道に入って550m程進むと、道が右に直角に曲がっている。

曲がり角から200m程進むと、左手に下りのダート道のある「Y字路」がある。このダート道が「ラウラウビーチ」への道である。

道なりに600m程下ると、「突き当たり」に出るので右に曲がる。「突き当たり」から50m程先を左に入ると「ラウラウビーチ」の「駐車場」に出る。

ラウラウビーチの日本軍トーチカ ラウラウビーチの日本軍トーチカ 海岸に向かって「駐車場」の右手の茂みの奥に「トーチカ@」がある。

海岸に向かって右に砂浜を300m程進むと、砂浜が終わり、先が岩場になっている。
(写真右 →)

砂浜の終わる場所から内陸に入っていく。内陸は藪になっており、左手には低い崖がある。
崖沿いに内陸に20m程入った辺りに「トーチカA」がある。周囲は藪に覆われている。

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「カグマン飛行場(East Field)跡地」

米軍上陸前に日本軍がサイパン島に建設した飛行場は、北部の「バナデル飛行場(建設中)」、南部の「アスリート飛行場」「アスリート飛行場の北西の飛行場(建設中)」、西部の 「オレアイ飛行場(建設中)」の4ヶ所であった。

カグマン飛行場跡地 カグマン飛行場跡地 米軍はサイパン島を占領した後、「バナデル飛行場」「アスリート飛行場」「アスリート飛行場の北西の飛行場」を改修して使用した。また、カグマン半島に新しく戦闘機用飛行場の建設を開始し、昭和19年(1944年)12月、滑走路(5100ft×150ft)・誘導路・駐機場を持つ「East Field」が完成した。

タッポーチョ山」から西側のカグマン半島を見る。当時の「East Field」が見える。(←)

「East Field」は「Kagman Airfield(カグマン飛行場)」とも呼ばれ、米陸軍第7航空軍司令部が置かれた。
その後、「カグマン飛行場」に進出した米陸軍第7航空軍所属の部隊は以下の通りであった。

 第7航空軍司令部 :昭和19年(1944年)12月19日〜昭和20年(1945年)7月12日
 第7爆撃航空司令部 :昭和19年(1944年)8月
 第7戦闘航空司令部 :昭和20年(1945年)12月1日〜昭和21年(1946年)4月15日
 第21戦闘航空群(「P-51H ムスタング」装備) :昭和20年(1945年)12月4日〜昭和21年(1946年)4月17日
 第318戦闘航空群(「P-47 サンダーボルト」装備) :昭和19年(1944年)6月〜昭和20年(1945年)4月30日
 第30爆撃航空群(「B-24 リベレーター」装備) :昭和19年(1944年)8月4日〜昭和20年(1945年)2月
 第28写真偵察飛行隊(「F-4(「P-38 ライトライトニング」の偵察機型)」装備) :昭和19年(1944年)7月11日〜昭和20年(1945年)5月
 第41写真偵察飛行隊(「F-4(「P-38 ライトライトニング」の偵察機型)」装備) :昭和21年(1946年)1月4日〜4月15日
 第9輸送飛行隊(「C-47」装備) :昭和19年(1944年)8月4日〜昭和21年(1946年)7月
 第6夜間戦闘飛行隊(「P-61 ブラックウィドウ」装備) :昭和19年(1944年)7月21日〜昭和20年(1945年)5月1日
 第548夜間戦闘飛行隊(「P-61 ブラックウィドウ」装備) :昭和19年(1944年)12月15日〜昭和20年(1945年)3月5日
 第549夜間戦闘飛行隊(「P-61 ブラックウィドウ」装備) :昭和20年(1945年)2月20日〜3月20日

カグマン飛行場跡地 カグマン飛行場跡地 「カグマン飛行場」は昭和21年(1946年)中ごろまでに、殆どの米軍部隊が撤収し、1960年代には飛行場としての役割を終えた。その後、「飛行場跡地」は住宅地やゴルフ場になって現在に至る。

タッポーチョ山」から西側にカグマン半島を見る。
現在は「ラウラウベイ・ゴルフリゾート」が見える。(←)

現在のKagman Rd.の一部が「カグマン飛行場」の「滑走路跡」である。1500m程の見通しの良い直線道路である。

カグマン飛行場跡地 カグマン飛行場跡地 「滑走路跡(Kagman Rd.)」の途中から「小学校」の敷地の西側を南に伸びる道がある。(←)

この道が「カグマン飛行場」の「誘導路跡」である。
尚、この道はカグマン半島の南東端にある「禁断の島」にいく道に続いている。

道の途中には「南洋興発建物跡」が遺されている。(←)(→)
日本統治時代、この一帯は「南洋興発第二農場」があった。米軍占領後に「カグマン飛行場」となり、現在は当時の面影は殆ど遺されていない。

「カグマン飛行場(East Field)跡地」の歩き方

サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。

カグマン飛行場跡地 カグマン飛行場跡地 「T字路」からKagman Rd.(34号線)を約2km進むと右手に「小規模店舗」ある。
ここを越えてKagman Rd.(34号線)を250m程進むと道なりに左に大きくカーブしている。

カーブを曲がると長い直線道路になっている。
この直線道路が当時の「滑走路跡」であり、この付近一帯が「カグマン飛行場跡地」である。

また、直線道路をカーブから約1km進むと右手に「消防署」がある。「消防署」の先には右に曲がる道が続いている。
この道は当時の「誘導路跡」である。道の左手(東側)には「小学校」がある。

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「南洋興発建物跡」

南洋興発建物跡 南洋興発株式会社は、大正10年(1921年)11月29日、松江春次によって設立された。

南洋興発は、国策会社として南洋群島に進出し、製糖事業を中心として発展した。従業員は5万人弱と南洋における最大規模の会社であったが、マリアナ諸島に於ける一連の戦闘で壊滅的な被害を受け、戦後にはGHQの閉鎖機関に指定され解散した。

日本統治時代、カグマン半島南部には「南洋興発第二農場」があった。(→)

南洋興発建物跡 南洋興発建物跡 南洋興発建物跡 カグマン半島南部に「南洋興発建物跡」が遺されている。(←)

「建物跡」は背が高く、窓が無い。倉庫のようである。

付近は背丈ほどの草が生い茂っており、これをかきわけて「建物跡」の裏に回りこむと入口がある。(→)

この「建物跡」は、5×5m程度の広さで比較的こじんまりした印象だが、2〜3階程度の高さがある。

南洋興発建物跡 南洋興発建物跡 「建物跡」内部は木々が生い茂っている。(←)

天井はないが、崩落したような形跡もないので、もとから天井のない構造で、サイロのような使われ方をした倉庫だったのではないだろうか。

地面にはコンクリートの土台のようなものが遺されている。(→)

付近には、この「建物跡」以外に、更に2つの「建物跡」が遺されている。

南洋興発建物跡 南洋興発建物跡 道を挟んだ向かいに小さな「建物跡」がある。1階建ての倉庫のようである。(←)
隣には、1階建ての広い「建物跡」がある。こちらも倉庫のようである。こちらも藪に覆われている。(→)

日本統治時代、この一帯は「南洋興発第二農場」であり、軽便鉄道の線路も引かれていた。昭和19年(1944年)7月にサイパン島を占領した米軍は、12月、この一帯に「カグマン飛行場(East Field)」を完成させた。
「建物跡」周辺の道は「カグマン飛行場の誘導路跡」であり、現在の舗装はその当時のものと思われる。

「南洋興発建物跡」の歩き方

サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。

南洋興発建物跡 南洋興発建物跡 「T字路」からKagman Rd.(34号線)を約2km進むと右手に「小規模店舗」ある。
ここを越えてKagman Rd.(34号線)を250m程進むと道なりに左に大きくカーブしている。

左のカーブを曲がりきると、長い直線道路になっているので、ここを直進する。尚、この直線道路は「カグマン飛行場の滑走路跡」である。

直線道路をカーブから700m程進むと「ラウラウベイ・ゴルフリゾート」の入口が右手にある。ここを超えて400m程進むと右手に「消防署」があり、「消防署」の先には右に曲がる道が続いている。

この道を右に曲がって400m程進むと右手に背の高い「建物跡」がある。その手前と向いにも「建物跡」がある。
尚、この道は「カグマン飛行場の誘導路跡」である。道の左手(東側)には「小学校」がある。

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「ゴルフ場のM5軽戦車」

ゴルフ場の「M5軽戦車」 カグマン半島南部の「ラウラウベイ・ゴルフリゾート(Lao Lao Bay Golf Course)」敷地内に「M5軽戦車」が遺されている。(←)

戦前に米陸軍が開発した「M2軽戦車」は、スペイン内戦で対戦車砲に抗し得ない薄い装甲が問題とされ、新型戦車を開発することとなった。装甲を強化した「M3軽戦車」が採用されたのは昭和15年(1940年)7月、生産開始は昭和16年(1941年)3月であった。
「M5軽戦車」は「M3軽戦車」をベースとし車体形状が改良され、昭和17年(1942年)2月に制式化された。砲弾の搭載数は「M3軽戦車」の103発から147発に増え、航続距離も113kmから161kmへと増大している。

日米初の戦車戦は、フィリピン諸島ルソン島に配備されていた「M3軽戦車」と上陸した「九五式軽戦車」との戦いである。「M3軽戦車」は日本軍の攻撃により撃退されたものの、「九五式軽戦車」の37mm砲を全て跳ね返した。昭和17年(1942年)5月に制式化された口径47mmの「一式機動四十七粍速射砲」は、射撃試験で開戦以来苦戦してきた「M3軽戦車」の前面装甲を1000mの距離で貫通することができた。しかし、「一式機動四十七粍速射砲」が前線に配備された頃には「M4中戦車(シャーマン)」が投入されるようになっており、日本軍はこの新たな敵に苦戦した。

ゴルフ場の「M5軽戦車」 ゴルフ場の「M5軽戦車」 この「M5軽戦車」は第4海兵師団第4戦車大隊に配属されていたA1型である。「ラウラウベイ・ゴルフリゾート」の造成計画時に発見された。

即ち、この「M5軽戦車」は戦闘場所から動かされておらず、まさにこの地で戦闘が行われたのである。

この「M5軽戦車」は、昭和19年(1944年)6月25日、日本軍の対戦車火器(速射砲)によって行動不能にされた。

砲塔側面には速射砲による被弾痕がある。(→)

ゴルフ場の「M5軽戦車」 ゴルフ場の「M5軽戦車」 「M3軽戦車」の生産が拡大するにつれて「M3軽戦車」に搭載するコンチネンタルエンジンの生産が追いつかなくなり、自動車メーカーであるGM社の自動車用エンジンを2基搭載したのが「M5軽戦車」である。

主武装は「M6 37mm戦車砲」1門、副武装は「M1919A4 7.62mm機銃」3挺、「M2軽戦車」では駐退復座機が露出していたが、「M3軽戦車」「M5軽戦車」では駐退復座機は防盾内に収められた。(←)
装甲は前面64mm、側面32mm、後面25mm、上面・下面13mm。

最高速度は、舗装道路では58km/h、未舗装路では30km/h、航続距離は161kmであった。

「ゴルフ場のM5軽戦車」の歩き方

サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。

ゴルフ場のM5軽戦車 ゴルフ場のM5軽戦車 「T字路」からKagman Rd.(34号線)を約2km進むと右手に「小規模店舗」ある。
ここを越えてKagman Rd.(34号線)を250m程進むと道なりに左に大きくカーブしている。

左のカーブを曲がりきると、長い直線道路になっているので、ここを直進する。尚、この直線道路は「カグマン飛行場の滑走路跡」である。

直線道路をカーブから700m程進むと「ラウラウベイ・ゴルフリゾート」の入口が右手にある。

ここを右折して道なりに進むと「ラウラウベイ・ゴルフリゾート」敷地内に「ゴルフ場受付」がある。

「M5軽戦車」は東コース5番ホールのグリーンの横にある。因みに、5番ホールは291ヤード・パー4である。
ゴルフプレイヤーでないと基本的には立ち入れないようであるが、「ゴルフ場受付」にて戦車を見学したいと申し出たところ、中に入れてもらうことができた。

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