マニャガハ島(軍艦島)

サイパン島

サイパン島の戦跡
大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

サイパン島西部:マニャガハ島(軍艦島)

マニャガハ島(軍艦島) マニャガハ島(軍艦島)

マニャガハ島(軍艦島)(詳細)
日本軍砲台跡
海中の高角機銃
掩蔽壕(退避壕)跡
桟橋跡

マニャガハ島(軍艦島)

マニャガハ島(軍艦島) マニャガハ島はガラパン市街の沖合い約3kmに浮かぶ小島である。
周囲は約1km、海抜3mで、一周歩いても20分程度の大きさである。島周辺には戦時中に沈んだ船艇や航機が遺されており、ダイビングスポットとなっている。

「タナバク港」への入り口に位置するマニャガハ島は、沿岸防御拠点と監視所として重視された。

マニャガハ島(軍艦島) 大東亜戦争開戦に日本海軍によって要塞化された。砲台(砲8門)や防空陣地が建設され、海軍第五根拠地隊の一部が配置されていた。

その頃、マニャガハ島は「軍艦島」と呼ばれていた。

米軍によるサイパン島占領後の昭和19年(1944年)7月13日、米海兵隊は支援砲爆撃の下、「軍艦島」への上陸を開始した。
これはサイパン島で行われた最後の米軍の上陸作戦であった。

上陸を行ったのは第2海兵師団第6連隊第3大隊であった。
11時、対岸のサイパン島から105mm砲900発・75mm砲720発による準備砲撃が15分間に渡って行わた。
その後、米軍部隊は上陸を開始した。

この時、「軍艦島」の日本軍守備隊(海軍第五根拠地隊)はそれまでの米軍の艦砲射撃・空襲によって殆ど壊滅しており、「軍艦島」には僅かな残存将兵と、サイパン島から総攻撃(昭和19年7月7日)以後に脱出してきてた兵士29名がいた。併しながら、既に組織的戦闘は困難であり、「軍艦島」は約1時間で米軍部隊に占領された。
29名の日本軍将兵のうち15名は米軍部隊に捕えられ、捕虜となったが、14名は米軍部隊に殺された。

マニャガハ島(軍艦島)の歩き方

マニャガハ島への渡航は、様々なツアー会社・マリンスポーツショップが運行しているボートを利用する。
料金(船代)は、ボートの規模や所要時間によって様々であるが、$20〜$25(大人1名)が相場のようである。
また、ツアー会社によっては、各種オプション(ダイビング・シュノーケリング等)を付加すると、船代が割安になるよう設定しているようである。

マニャガハ島(軍艦島) 以下に幾つかのツアー会社・マリンスポーツショップを紹介する。
これ以外にもボートを運航している会社がある。

フィエスタリゾート&スパ サイパン」前のビーチから

・「アミーゴ・アクアティック・スポーツ」($20)
http://www.saipan-web.com/amigo/index.html

ハイアット・リージェンシー・サイパン」前のビーチから

・「シーウィンド・マリンスポーツ」($25・10分・6人乗りスピードボート)
http://www.saipanwind.com/sw-s-managaha.htm

ハファダイ・ビーチ・ホテル」前のビーチから

・「マニャガハ・エクスプレス」($38・30人乗りボート)
http://www.pdisaipan.com/mana.html
・「サイパン観光案内所」($20・15分)
http://anime-club.jp/saipan/managaha.html

沖合いは波が高い為、小型のボートで島に渡る場合はボートの中まで波をかぶることもある。

マニャガハ島に上陸する際には、別途$5の入島料が必要である。ツアー代金に入島料が含まれている場合もある。

ページ先頭に戻る

「日本軍砲台跡」

マニャガハ島西部に「日本軍砲台跡」が遺されている。この「砲台」は、沿岸防衛の為に海軍が建設した。
マニャガハ島西部の桟橋を降りてすぐ目に入るのは、2門の「安式四十口径六吋砲」(アームストロング式40口径6インチ砲)である。

日本軍砲台跡 日本軍砲台跡 「安式四十口径六吋砲」(6インチ砲)は艦砲として開発されたが、陸上で沿岸砲としても広く使用され、各地に多数遺されている。

サイパン島では、ナフタン半島の「日本軍砲台跡」に1門が遺されている。
他にも、テニアン島の「テニアン空港」に1門、「小川砲台跡」に1門が遺されている。

桟橋に近い「6インチ砲」は、コンクリート製「砲座」の中に設置されている。(←)

「砲座」は砲爆撃による損傷が激しい。(→)

日本軍砲台跡 日本軍砲台跡 これらの「6インチ砲」は島の西側に設置されており、ここからは米軍がサイパン島に上陸作戦を行った海岸を望むことができる。上陸海岸まではここから約10km程度であり、射程18kmのこの「6インチ砲」も米軍の上陸を阻むべく砲撃を行ったのであろうか。

天蓋部分も完全に崩落しており、砲尾部は瓦礫に埋まっている。(←)

もう1門の「6インチ砲」は既に「砲台」が撤去されたのか、「砲台」の建設が間に合わなかったのか不明だが、「6インチ砲」と「砲架」のみが設置されている。(→)

日本軍砲台跡 日本軍砲台跡 砲尾から砲弾を装填したあとに閉める蓋である「尾栓」が失われているが、こちらの「6インチ砲」は砲尾の機構部分もよく見ることができる。
砲身の薬室上部に穴が2つ開いているが、この状態では装薬が爆発しても弾頭を目標に向けて飛ばすことができない。米軍が占領後にこの「6インチ砲」を使用できないように加工したのであろうか。(←)

また、すぐ隣には別な「砲」の尾部が転がっている。(→)
この「砲」は「6インチ砲」ではない。
「尾栓」の一部が遺されているが、砲身は途中で切断された状態となっている。

「日本軍砲台跡」の歩き方

日本軍砲台跡 マニャガハ島西部である。

「桟橋」を降りて左手に50m程歩いた海岸沿いである。

ページ先頭に戻る

「海中の高角機銃」

海中の高角機銃 海中の高角機銃 マニャガハ島南東部、「サイパン港」の対岸に「九六式二十五粍高角機銃」が半分水没した状態で遺されている。(←)

九六式二十五粍高角機銃」は防空用だけでなく、敵の上陸が予想される地点に設置され、上陸用舟艇に対する攻撃にも使われた。

岸から10mほど、水深1mのところに横倒しの状態で銃架の一部と銃身の先端が少し海面から出ている程度であったが、引き潮の時間帯ならもう少し海面に姿が現れてくるだろう。(→)

海中の高角機銃 海中の高角機銃 銃身は二本あり、連装型であったようである。(←)

長年海中にあったためか貝類のようなものでびっしりと覆われており、腐食は激しい。

また、付近の砂浜には、銃身のない機銃の台座部分のようなものが複数転がっている。
大部分が砂に埋もれた状態である。「九六式二十五粍高角機銃」の旋回銃架(バーベット)であると思われる。(→)

「海中の高角機銃」の歩き方

海中の高角機銃 マニャガハ島南東部である。

「桟橋」を降りて右手に400m程歩いた海岸沿いである。
対岸には「サイパン港」が見える。

潮の満ち具合によっては「海中の高角機銃」は見つけにくい。
砂浜に転がている「旋回銃架(バーベット)」から探す方が分かりやすいかもしれない。

ページ先頭に戻る

「掩蔽壕(退避壕)跡」

掩蔽壕跡 掩蔽壕跡 マニャガハ島南東部には日本軍の「掩蔽壕(退避壕)跡」が遺されている。(←)
ちょうど「サイパン港」の対岸である。

大人1人がかがんでやっと通れる程の5mくらいのコンクリート製のトンネルである。銃眼などはない。(→)

海からの攻撃から身を守りつつ移動するためのトンネルだったのであろうか。

「掩蔽壕(退避壕)跡」の歩き方

掩蔽壕跡 マニャガハ島南東部である。

「桟橋」を降りて右手に400m程歩いた海岸沿いである。
対岸には「サイパン港」が見える。

付近の海岸・海中には「海中の高角機銃」がある。

ページ先頭に戻る

「桟橋跡」

桟橋跡 桟橋跡 「桟橋跡」と思われる土台が遺されている。(←)

戦時中に使われていたマニャガハ島の桟橋は、現在の「桟橋」とは違うところにあった。
海中の高角機銃」の付近に四角いコンクリート製の土台が海に向かって列になってならんでいる。これが「桟橋跡」かどうかは詳細不明である。

こちらは現在の「桟橋」である。(→)

橋の手前に小船のようなものが沈んでおり、2本の尖った棒状のものが見えているが、詳細不明である。

「桟橋跡」の歩き方

桟橋跡 マニャガハ島南東部である。

「桟橋」を降りて右手に400m程歩いた海岸沿いである。
対岸には「サイパン港」が見える。

付近の海岸・海中には「海中の高角機銃」がある。

ページ先頭に戻る

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争遺跡」へ戻る>> 「マリアナ諸島」へ戻る>> 「サイパン島」へ戻る>> 「マニャガハ島(軍艦島)

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system