キャピトル・ヒル周辺

サイパン島

サイパン島の戦跡
大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

サイパン島中部:キャピトル・ヒル周辺

キャピトル・ヒル周辺 キャピトル・ヒル周辺

日本軍無線局跡
日本灯台跡

「日本軍無線局跡」

日本軍無線局跡 日本軍無線局跡 キャピトル・ヒル(Capitol Hill)は、議事堂・郵便局・図書館などが並ぶ閑静な地区である。昭和22年(1947年)7月にアメリカの国連信託統治領行政府が発足し、その行政本部ビルは海抜210mのこの丘に建てられたため、この地名が付けられた。

ここには、「日本軍無線局跡」が遺されている。(←)

「建物跡」は長年放置されているようであり痛みが激しいが、前の広場は人の手が入って草が定期的に刈られているようである。(→)

日本軍無線局跡 日本軍無線局跡 「建物跡」は何棟かあるが、そのそれぞれが渡り廊下でつながっていたようである。渡り廊下の屋根の跡が壁面に遺されている。(←)

「建物跡」の中で一番大きいものは二階建てである。(→)

併しながら、二階の床は完全に崩落している。
天井は残っているので、米軍の攻撃によるものではなく経年劣化によるものと思われる。

日本軍無線局跡 日本軍無線局跡 ある一室の片隅に、比較的新しい千羽鶴が飾られていた。(←)

ここの「無線局」に配置されていた部隊の遺族会などが慰霊に訪れているのだろうか。

奥の方まで進んでいくと、草や蔦で覆われているがアーチ型の立派な玄関がある。(→)
本来はこちらの方が正面入り口であったようだが、「建物跡」のこちら側は全く手入れされていないようで、完全に密林に覆われていた。

「日本軍無線局跡」の歩き方

ガラパン市街からミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を北上する。

日本軍無線局跡 日本軍無線局跡 「サイパン港」付近の「T字路」を右折し、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を山の方へ登っていく。

「T字路」から途中ヘアピンカーブなどがありつつ1.9km程山を登ったところに、左手に鋭角に曲がる「分岐」がある。
これがSavana Rd.でありここを入る。
(左写真:Savana Rd.への「分岐」 →)

Savana Rd.を300m程進むと道が二股に分かれる「分岐」があるが、左側を進む。
(右写真:二股の「分岐」 →)

日本軍無線局跡 日本軍無線局跡 二股の「分岐」から道なりに1000m程進むと右手にGuguan Dr.に分かれる「分岐」があるが、道なりにSavana Rd.を更に進む。
600m程進むと、左手に「墓地」がある。

この「墓地」を超えてすぐのところの右手に赤いポールにチェーンのかかった道がある。

この道を進むと「日本軍無線局跡」前の広場に出る。

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「日本灯台跡」

ガラパン市街を望む丘に「日本灯台跡」が遺されている。

日本灯台跡 日本灯台跡 通称「日本灯台」は、日本統治時代の昭和9年(1934年)、ガラパン市街東部の内陸部の丘陵地帯に建設された「信号台」であった。
その目的は、珊瑚礁や浅瀬の多い「タナパグ港」に出入りする船への航法のための信号を出すためであった。

併しながら、昭和19年(1944年)6月、の米軍のサイパン島上陸の際、米軍の砲爆撃によって建物は大きく損傷した。
米軍がサイパン島占領後(昭和19年7月15日)に撮影した「日本灯台」。(←)
「灯塔」「灯室」が大きく損傷している。「灯ろう」内部に「レンズ」が見える。

米軍はサイパン島占領後、「日本灯台」を修復し、「タナパグ港」の信号台として使用していた。(→)

日本灯台跡 日本灯台跡 昭和22年(1947年)に米軍が撤退したあと、この「日本灯台」は長らく使われずに放置されていた。

放置された「日本灯台跡」。(←)
米軍の攻撃によって損傷した「灯塔」「灯室」は修復されている。また、「灯ろう」内部の「レンズ」は失われている。

1960年代の「日本灯台跡」。(→)
「灯室」から上の、「灯ろう」「灯ろう屋根」は失われている。

日本灯台跡 日本灯台跡 その後、1980年代の終わりに改修されてレストランとして生まれ変わった。

「灯室」の周りに「踊場」が設けられ、「灯室」から上が新しく作られ、屋根として鋼鉄製のドームが載せられた。 これ等は「展望台」として再建された為、「信号台」としての機能はなかった。「灯ろう」の形状も「日本灯台」の頃と若干違っている。(←)
また、1階の建物も増築された。

「灯室」の周りの「踊場」に上がるとガラパン市街や「タナパグ港」がよく見渡せる。(→)

日本灯台跡 日本灯台跡 しかしながら、レストランとして使われたのは5年間程度で、現在は再び廃墟となっている。

「灯塔」内部の螺旋階段。(←)
「灯室」「踊場」まで上がることが出来る。「レンズ」等の「信号灯」としての設備は遺されていない。

「日本灯台跡」の側に「建物跡」が遺されている。(→)

昭和19年(1944年)6月、米軍のサイパン島上陸前後には、「日本灯台」付近に海軍部隊(横須賀第一特別陸戦隊)の本部が置かれていた。

「日本灯台跡」の歩き方

ガラパン市街のミドル・ロード( Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)からNavy Hill Rd.(38号線)を山の方に登っていく。
アメリカンメモリアルパーク」前の道を山の方に向うとNavy Hill Rd.(38号線)に入る事が出来る。

日本灯台跡 日本灯台跡 Navy Hill Rd.(38号線)に入って1.5km程進むと、左前方にDelegario Dr.の「分岐」がある。

Delegario Dr.を300m程行ったところを左折すると、すぐに左手に「学校の校庭」が見えてくる。

Delegario Dr.は200m程でIsla Dr.に突き当たるので、ここを左折する。

100m程で右手に出てくるFuetsa Loopに入る。Fuetsa Loopを50m程進むと「日本灯台跡」が左手に見えてくる。

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