海軍第二二六設営隊員の多くは防衛召集された現地住民であった。土木機械は全くなく、ほとんどがつるはしとスコップの人力作業であった。(←)
海軍部隊は喜屋武半島に退却したとき、海軍砲や重機関銃などを輸送する余裕がなく、これらを破壊して放棄した。壕周辺に米軍が迫ってきたときは、「三八式歩兵銃」などの小銃程度の装備すら不足している状態であった。そのため、鉄道のレールで手製の槍を作ったり、250キロ爆弾の火薬で手榴弾や爆弾を製造して肉弾攻撃をかけるしかなかったのである。(→)
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5月半ばになると米軍は陸軍が終結していた首里付近に迫り、陸海軍は合流をはかった。しかし、6月に入って米軍の攻撃は激しくなり、陸軍との合流は断念せざるを得なくなり、海軍は司令部壕付近に孤立する状況となった。
壕内へ降りる階段である。内部は薄暗い。(←)
階段を下りたところに、壕内の見取り図がある。通路が蜘蛛の巣状に張り巡らされており、その両側に部屋が配置されている。(→)
壕内は全て復元されているわけではなく、未整備部分には柵が設けられており入ることはできない。中は灯りもなく、瓦礫がそのままになっているようである。全長450mのうち、公開されている部分は300m、公開されていない部分は150mである。(←)
作戦室である。作戦を練るための重要な部屋であり、漆喰で固めた白い壁は当時のままである。(→)
下士官室である。(←) 壕内には4000名の兵士が集まり、これらの部屋だけならず坑道にも兵士で溢れており、多くの兵士は立ったまま睡眠を取らざるを得なかった。
発電機が置かれていた台である。
6月4日午前5時、米軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕を包囲した。
包囲が次第に狭められていく中で壕内に重火器はほとんど残っておらず、もはや歩兵による突撃しか残された手段はなかった。この出口から武器らしい武器もなく出撃した大勢の兵士のほとんどは再び帰ってくることはなかった。(→)
槍を持って出撃する兵士の絵である。
この部屋は多くの負傷兵がいた、という生存者の証言により、ここは医療室であったと推測されている。(←)
幕僚室(参謀室)である。作戦室と同じく漆喰で固めた白い壁に無数の穴がはっきりと残っている。これらは参謀が自決した際の手榴弾の破片の跡である。(←)
6月11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられた。
司令官室である。13日午前1時、大田司令官はこの部屋でピストルにより自決を遂げたと言われている。(←)
壁面には「醜米覆滅」の文字が読み取れる。絶望的な戦いの中、最後まで戦い抜くために士気を高めようとしたのだろうか。(→)
大田司令官は自決する直前の6日夜に海軍次官宛に訣別の電報を打った。当時の訣別電報は天皇への忠誠などを示す内容のものが多いが、大田司令官の打った電報は沖縄県民の敢闘の様子を本土に訴える内容であった。
以下は電報の抜粋である。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜んことを。
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その下には参加部隊名が刻まれた碑がある。第二二六設営隊の名も刻まれている。左側は参加艦艇の名が刻まれており、碑の前にはイカリが置かれている。(→)
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