・嘉数高台公園 ・浦添大公園(前田高地) ・シュガーローフ ・南条市大里農村環境改善センターの八九式十五糎加農砲(89式15cmカノン砲) ・第三二軍司令部壕跡(首里城) ・沖縄師範学校正門柱・円覚寺跡地・忠魂碑 ・西原町中央公民館の九六式十五糎榴弾砲(96式15cm榴弾砲) ・那覇空港(小禄飛行場跡) ・海軍司令部壕跡 展示内容詳細はこちら
米軍上陸時、日本軍主力部隊は沖縄本島南部地域に配置されていた。日本軍は米軍が崖の多い南部海岸を避けて北部から地上侵攻してくると予想しており、本島中部から南部の間の高地に防御陣地を築いて米軍部隊を迎え撃った。
上陸したあとにほとんど抵抗を受けずに進撃してきた米軍を最初に本格的に迎え撃ったのが「嘉数高台」であり、この地は現在は公園として整備されている。(←)
急な石段を登り切ったところは展望台となっている。(→)
「嘉数高台」をめぐる日米の攻防は昭和20年(1945年)4月8日から16日間におよび、沖縄戦最大級の激戦であった。
「嘉数高台」の北側斜面には「トーチカ」が遺されている。(←)
後面の下側にはかがみながら入れるくらいの小さい入り口がある。(→)
前面には複数の銃眼が開いているが、鉄筋がむき出しになっているところもある。後面にきれいにコンクリート面が残っているのと比べると、前面はかなり損傷が激しく、米軍の攻撃の激しさが伺われる。(←)
内部は詰めれば6人程度は入れそうである。銃眼前面は現在は木が生い茂っている。(→)
日本軍は64000名の戦死傷者数を出したが、優勢な火力、兵力をもって勝利した米軍も24000名(資料によっては12000名)の戦死傷者数を出した。
「トーチカ」の後ろには複数の「慰霊碑」が設置されている。(←)
「京都の塔」である。沖縄戦に投入された第六二師団は京都出身者が多く、戦没者の冥福を祈るために京都府民によって建立された。(→)
展望台から米軍が侵攻してきた北側方向を望む。現在は普天間飛行場となっている。(←)
同じく展望台から南側方向を望むと東西に伸びる 「前田高地」が見える。(→)
「嘉数高台」を占領した米軍は次に「前田高地」の日本軍の防御陣地に進撃を阻まれることとなった。
那覇バスターミナルから25番普天間空港線、「広栄」バス停下車。約1時間。
広栄は県道241号線と国道330号線(浦添バイパス、高架)の交差点である。交差点北西角に三角形の植え込みがあるので、この植え込みから北西に伸びる路地を進む。700mほどで左手に嘉数区公民館兼体育館がある。公民館からさらに50m進んだところを右に曲がる。ここから200mほどで公園の入り口が見えてくる。
石段を登ったところに展望台が、展望台の左手に慰霊碑群がある。「トーチカ」は「慰霊碑」群と道を挟んで反対側であり、「トーチカ」の位置を示す看板が設置されている。
なお、車で来る場合は、那覇方面から国道58号線を北上し、嘉手納飛行場を越えて比謝川にかかる橋を渡ったところが大湾交差点である。なお、車で来る場合は、那覇方面から県道241号線を北上し、国道330号線(浦添バイパス、高架)との交差点が広栄である。普天間飛行場の3kmほど手前(南)である。
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激戦地となった「前田高地」は、現在「浦添大公園」となっている。きれいに整備された公園は市民が憩い、一見しただけでは激戦であったようには見えない。しかし、ここにも戦争の跡は遺されている。(←)
激戦の末に「嘉数高台」を占領した米軍は、昭和20年(1945年)4月26日、 「嘉数高台」の南1kmほどに位置する「前田高地」への攻撃を開始した。
「前田高地」からは「嘉数高台」の青い展望台を望むことができる。(→)
「前田高地」が占領されると、首里の司令部が攻撃にさらされることになるため、日本軍は浦添城址を中心として「前田高地」に防御陣地を築いた。
米陸軍公刊戦史に「ありったけの地獄を一つにまとめた戦場」と表現されるほど激しい11日間の戦闘を経て、5月6日、「前田高地」は陥落した。
公園の遊歩道沿いに壕が遺されている。(←)
入り口はコンクリート造りであるが、内部は手掘りで掘ったような土がむき出しで、10人くらい入れそうな空間である。(→)
那覇バスターミナルから25番普天間空港線、「広栄」バス停下車。約1時間。
広栄は241号線と330号線(浦添バイパス、高架)の交差点である。高架に沿って西へ500mほどいったところに330号線を横切る陸橋がある。この陸橋のところを左(南)に入る。
陸橋の出口は左右に道が分岐しているが、ここの右側の路地に路地を入る。陸橋のところから道なりに500mほど進むと右手に「浦添大公園」の入り口がある。
なお、車で来る場合は、那覇方面から県道241号線を北上し、国道330号線(浦添バイパス、高架)との交差点が広栄である。普天間飛行場の3kmほど手前(南)である。
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「首里の司令部」西方2kmに位置する安里付近には、米軍に「シュガーローフ」と呼ばれた丘があった。「シュガーローフ」の南180mには馬蹄形の形をした「ホースシュー」、南東約400mには「ハーフムーン」という丘があった。これら3つの丘は日本軍によって互いに補完する形で高度に要塞化され、地下に掘られたトンネルで繋がっていた。
「ハーフムーン」から「シュガーローフ」を望む。「シュガーローフ」は安里配水池公園となっており、頂上部分に大きな貯水タンクが建てられている。(→)
「シュガーローフ」は戦争当時は高さ15m〜20m、長さ270mの丘であった。現在も高さはほぼ変わらないものの、周辺部分が削り取られて宅地化され、現在では長さ100mほどとなっている。(←)
「シュガーローフ」の急斜面には階段が設置されており、丘の上に登ることができる。
丘の上には展望台のほか、「シュガーローフの戦闘」の説明板が米軍の火炎放射型の戦車の写真とともに載せられて設置されている。(←)
「シュガーローフ」は「前田高地」の次に激戦地となった。日本軍はこの場所を突破されると那覇市街を米軍に掌握され、さらに「首里の司令部」裏側に回り込まれて包囲される恐れがあったため、予備兵力を全てつぎ込んで守備する体勢を整えていた。
「シュガーローフ」から「ハーフムーン」を望む。モノレールを挟んで道路造成で削られた「ハーフムーン」が見える。(→)
「ハーフムーン」である。平成21年(2009年)現在、道路が造成中であり、丘は中央で分断されている。(←)
「ハーフムーン」から「ホースシュー」のあった位置を望む。(→)
宅地造成が進んだためか、現在は丘になっているような部分は見当たらない。 当時は「ホースシュー」の馬蹄形の窪地部分に日本軍の迫撃砲部隊が陣地を構えていた。馬蹄形の丘が障害となり、米軍は迫撃砲陣地に直接攻撃を加えることができなかった。
ゆいレールおもろまち駅下車。「ハーフムーン」は駅の200m西にある丘であり、駅のホームから見える位置にある。
駅のすぐ南にT字路があり、ここを右に曲がると右手にDFSギャラリアがある。左手前方に見える大きな貯水タンクのある丘が「シュガーローフ」である。
おもろ町駅は国道330号線沿いで、国際通りからは1kmほど北である。
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南条市大里農村環境改善センター前に 「八九式十五糎加農砲」が遺されている。 平成15年(2003年)3月に大里の平川壕から発掘され、8月から展示されている。(←)
放列砲車重量10.4トン、砲身3.4トンの大型の砲(重砲)である。 砲身長は6.0m(40口径)であり、見た目にもかなりの迫力がある。(→)
昭和20年(1945年)3月、独立重砲兵第一〇〇大隊の 「八九式十五糎加農砲」が2門が平川壕に配備され那覇方面に砲列を敷いた。
5月の米軍の攻撃により壕ごと破壊されて埋没した。1門は掘り出して移動されたが、この砲は放棄されてその後発掘されるまで58年間地中に埋没することとなった。
砲の保存状態は良く、各部に大きな損傷は見られない。恐らく砲自体が損傷する前に埋没したのであろう。(←)
口径は15cm・重量40.6kg・威力半径60mの「九三式榴弾」が使用された。最大射程は18.1kmであった。水平射角は左右20度であり、この砲は砲身が少し右を向いていている。(→)
操砲ハンドルは砲架左側に位置している。砲身を挟み込むように斜め上に伸びている2本の筒は駐退機(発射の衝撃を和らげるダンパー)である。(←)
俯仰角は+43度から-5度に俯仰可能であり、高低照準用ハンドルは砲架右側に位置した。また、本砲は当初大正9年(1920年)に閉脚式として設計されたが、昭和8年(1933年)に製作図の修正が行われ開脚式に改められた。脚の部分もどっしりしており、安定性がありそうである。脚の先に付いている矢板は、地面に打ち込んで射撃時の砲の後退を防ぐためのものである。(→)
この砲では尾栓(砲身の後ろの蓋)は失われている。閉鎖機は段型段隔螺式であり、ねじ状に溝を切った尾栓を砲尾と合わせ、ねじ込むように閉鎖する形式のものである。砲身を後ろから覗き込むと、ねじ状の溝を見ることができる。(←)
砲身の隣に置かれているのは砲架車である。(→) 本砲を移動させるときは砲身車、砲架車に分けて運んだ。移動状態から放列状態への転換には2時間程度を要した。
ジャッキである。(←) 放列状態を取ったときに、これらを使って砲の水準を合わせた。
「九四式三十七粍砲(94式37mm砲)」の砲身部分が砲架車の隣に遺されている。(→)
陸軍初の本格的な「速射砲(対戦車砲)」であり、ノモンハン事件でソ連軍の軽戦車に対しそれ相応の戦果を上げたが、戦争後期に登場した装甲の厚い戦車に対しては威力不足であり、後継の 「一式機動四十七粍速射砲(一式機動47mm速射砲)」が開発されることとなった。
仲程交差点(十字路)から那覇方面からのバスの進行方向からみて右手(南)に100mほど行くと、右手に丘に登る道がある。
この道を100mほど登ると、右手に「南条市農村環境改善センター」への入り口を示す案内板がある。
なお、この道を直進すると南条市役所大里庁舎前に出る。
車で来る場合は、那覇中心部からは国道329号線(那覇東バイパス)を南東へ進む。 国道329号線は上間交差点で県道82号線と分岐するが、ここは右折で引き続き国道329号線を東へ進む。 上間交差点から1.5kmほどの兼城交差点を右折して県道241号線に入る。1.5kmほどで県道86号線と合流する。県道86号線を2kmほど行くと仲程交差点に出る。
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第三二軍は昭和19年(1944年)3月に編成され、奄美諸島から先島諸島の守備を担当し、司令部は首里城の下に掘られた地下壕に置かれた。米軍の激しい攻撃の巻き添えとなり、琉球王国時代の文化的遺産はことごとく焼失した。写真は昭和33年(1958年)に再建された守礼門。(←)
昭和20年(1945年)4月1日、沖縄本島中西部の読谷村付近に上陸した米軍は那覇方面へ南下を開始した。首里城より米軍が侵攻してきた北側望む。那覇は写真右側の丘のように起伏のある地形が多く、これらの丘ごとに守備隊が配置された。(→)
壕の内部は未整備であり公開されていない。壕への入り口の坑道は5ヵ所あり、那覇市立城西小学校敷地内の第3坑道や沖縄県立芸術大学敷地内の第5坑道などは今も壕内に通じており、過去に調査が行われている。しかしながら、地権者との合意問題や崩落しやすい地質のため、保存、公開の目処は立っていない。 第1坑道はこの園比屋武御嶽石門の裏手の斜面にあった。第1坑道はコンクリートで補強されない穴だったそうである。(←)
第1坑道は現在は埋もれてしまっている。斜面下側から石門に向かって撮影。(→)
園比屋武御嶽石門の横には円鑑池方面へと下る階段がある。(←)
ここ付近には3つのトーチカが遺されているが、これらは第1坑道を守るためのものであり、司令部壕内部には通じていないそうである。
階段を下りたところの左手に「トーチカ@」が遺されている。(→)
第三二軍は昭和19年(1944年)7月頃ごろから南風原町津嘉山に司令部壕を構築していた。しかしながら第九師団の台湾への移動に伴う兵力の再配置により、首里に司令部を移設することとなった。 第二野戦築城隊によって同年12月に本格的に着工した。
「トーチカ@」の入口には柵が設置されており、中に入ることはできない。(←)
「トーチカ@」の横から斜面を登ると、「トーチカ@」の天井部分を見ることができる。(→)
昭和20年(1945年)3月、米軍機による激しい沖縄空襲が始まった。人力による掘削作業は難航し、各坑道は未だ貫通していない状態であった。司令部は未完のまま沖縄戦を迎えたのである。
斜面を登ったところにもう一つ小さい「トーチカA」が遺されている。(←)大きさは「トーチカ@」の3分の1程度である。
こちらも入口には柵が設置されている。(→)
米軍は、 「嘉数高台の戦闘」(4月18日〜24日)、 「シュガーローフの戦闘」(5月12日〜18日) を激戦の末に制して首里の前衛陣地を占領し、首里の司令部に迫っていた。
階段の右手にも「トーチカB」が遺されている。(←)
このトーチカは損傷が激しい。 コンクリート壁は30cmはあろうかという頑丈そうな造りであるが、正面に大きな穴が開き、損傷は天井部分にも及んでいる。米軍の攻撃の苛烈さが伺われる。(→)
首里の前衛陣地付近での総攻撃に失敗して多くの戦力を失い、壕内には移動不可能な数千人重傷者がいた。万策尽きた第三二軍司令部は首里での玉砕に傾きつつあった。しかし、沖縄戦のあとに起こるであろう本土決戦の準備時間を少しでも確保するため、第三二軍司令部は首里司令部を放棄して摩文仁への撤退を決断した。
このトーチカの前面にもトーチカのようなコンクリート壁があるが、こちらは第三二軍合同無線通信所であった。(←) 入口には「旧第三十二軍合同無線通信所跡」との札がかけられている。(→)
守礼門をくぐったところを右手に下っていくとT字路に出るが、このT字路の左手前側にも「トーチカC」が遺されている。看板等はなく、半分埋没している状態なので、注意して見ないとトーチカであることは分からないだろう。平成18年(2006年)6月末に歩道の整備に際して一部(47cm×約200cm)が削り取られた。歩道側の壁面が他の部分よりも白っぽく見えるのはそのためである。(←)
歩道側に2ヵ所網がかけられている部分は削られた銃眼の断面部分である。網から中を見ると、中に空間が広がっているのが分かる。(→)
5月27日に第三二軍は豪雨と夜陰にまぎれて南部への撤退を開始した。米軍が第三二軍の撤退に気づいたのは、撤退後かなりの時間が経ってからであった。5月29日に米海兵隊が首里に突入したとき、壕内は既にもぬけの殻となっていた。
「トーチカC」の上部には鉄板がかぶせられている。上部に破穴などがあり、危険防止のために設置されているのだろうか。(←)
歩道側から見て右側にも銃眼がある。(→)
米軍は5月31日に首里を占領した。 米軍の目を欺いて撤退作戦は成功したのである。しかし、それは南部へ避難した住民を巻き込んだ更なる悲劇の始まりであった。
銃眼が地上に露出している部分は5cm程度であり、かなりの部分が土中に埋まっていることが分かる。(←)
銃眼は外側が広く内側が狭いハの字型になっている。(→)
首里城へはゆいレール首里駅を利用するのが便利である。
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沖縄県立芸術大学の駐車場に沖縄師範学校正門の4箇所の門柱のうち、残存した1箇所をこの場所に移したものである。(←)
昭和20年(1945年)1月、第三二軍司令部が首里に移転した際、部隊の一部は師範学校男子部校舎にも駐留した。3月29日には女子校舎が、4月5日には男子部校舎が米軍の砲爆撃によって壊滅した。学校は昭和21年(1946年)に廃校となった。
「門柱跡」にはおびただしい数の弾痕が遺されており、攻撃の激しさを物語っている。(→)
「門柱跡」から道を挟んだ反対側は「円覚寺跡地」である。(←)
寺は戦火によって全焼したが、弾痕の残る鐘が遺されている。鐘は現在、「沖縄県立博物館」(那覇市おもろまち)に遺されている。
守礼門から首里城方面に150mほどのところに歓会門がある。この歓会門の手前の石垣の上に「忠魂碑」が遺されている。(→)
「忠魂碑」周辺は草木に覆われており、道行く人で気づく人はほとんどいないようである。(←)
「忠魂碑」は損傷が激しく、文字等は読み取ることができない。米軍の攻撃で損傷したのか、あるいは意図的に削り取られたかは不明である。(→)
首里城へはゆいレール首里駅を利用するのが便利である。
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西原町中央公民館の裏手に 「九六式十五糎榴弾砲」が展示されている。(←)
平成16年(2004年)12月、西原町幸地集落南西部の陣地壕跡から発見された。
西原町は当時日米両軍の激しい戦闘が繰り広げられ、住民の約47%が犠牲となった。
「九六式十五糎榴弾砲」の初陣は制式採用直前の盧溝橋事件であり、正定城攻撃に大きな成果を収めた。昭和13年(1938年)に制式採用され、終戦までに440門が製造された。(→)
中国戦線や沖縄戦の他、コレヒドール攻略戦やガダルカナル島の戦いなどの太平洋戦線でも巧みに隠された砲陣地から戦火を上げ、米軍側から「ピストルピート」と呼ばれた。(←)
自己緊縮砲身やリーフスプリングの採用など、大正4年(1915年)に制式採用された「四年式十五糎榴弾砲」から飛躍的に近代化された火砲であった。
リーフスプリングとは細長い板バネを重ねたサスペンションシステムであり、車軸と砲身の間に装着されているのが見える。(→)
「九六式十五糎榴弾砲」は、野砲兵連隊(師団砲兵)や野戦重砲兵連隊に配備され、沖縄本島には野戦重砲兵第一連隊・第二三連隊が配置されていた。特に、野戦重砲兵第一連隊の本部隊第二大隊よる砲撃で跳ね上げた石が米第10軍団司令官バックナー中将を直撃、同中将は戦死した。
各部の損傷は激しく、戦闘の激しさを物語る。バラバラになってしまった部品を集めて組みなおした、といった感じである。(←)
左側の車輪も一部失われている。車輪はソリッドゴム装着の木製であった。(→)
脚の部分の損傷も激しい。特に尾栓の下あたりの部分は両脚ともに完全に破断してしまっている。砲身後部に下向きの大きな力がかかり、折れてしまったようにも見える。(←)
尾栓部分である。最大射程は11.9kmであった。(→)
この「九六式十五糎榴弾砲」はかつて西原町立図書館の前に展示されていた。しかしながら、一部の市民団体より戦争の道具を図書館に展示することへの反対運動が起こり、現在の場所に移設された。
那覇市中心部から東に約10kmの西原町中央公民館の裏手に展示されている。
那覇中心部からは、「県庁北口」バス停あるいは「県庁南口」バス停から33系統か46系統に乗り、「西原中央公民館前」バス停下車。約1時間である。
バス停から那覇方面からのバスの進行方向に50mほどいくと、左手に登り坂がある。ここを登ったところに西原町中央公民館がある。
公民館の建物の左側から裏側に回りこむことができる。 建物の裏手はテニスコートとなっており、その脇に 「九六式十五糎榴弾砲」が展示されている。
なお、西原町立図書館は「西原中央公民館前」バス停から那覇方面からのバスの進行方向と反対側に100mほどいった左手にある。 車で来る場合は、那覇中心部からは国道329号線(那覇東バイパス)を東へ進む。
西原町内の兼久交差点を左折し、1kmほどいくと右手に西原町立図書館が見えてくる。 ここから更に150mほど行った左手に西原町立図書館への登り坂がある。
また、南条大里農村環境改善センター最寄の「仲程」から36系統で「与那原」まで→30系統か58系統で「西原」まで→33系統か46系統で「西原中央公民館前」まで乗り継いでいくこともできるが、バスの本数が少ない時間帯もあるので不便である。
タクシーなら20分で1300円ほどである。
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那覇空港は戦前の昭和8年(1933年)8月に日本海軍が建設した「小禄(おろく)飛行場」が前身である。昭和47年(1972年)の沖縄返還までは米軍が管理していたが、現在は民間と自衛隊の共用空港である。
民間機の離着陸の合間に、ときおり自衛隊機を見ることができる。(←)
米軍は沖縄本島上陸に先立って、昭和20年(1945年)3月26日に慶良間諸島の座気味島など数島を占領し、作戦拠点となる泊地や水上機基地などを設置した。日本軍はこれらの島に地上部隊をほとんど配備していなかった。
「那覇空港」のターミナルビルからは滑走路を挟んで沖合いに慶良間諸島を見ることができる。(→)
3月31日、米軍は慶良間諸島東端の慶伊瀬島(諸島)に上陸し、その中の最も沖縄本島に近い神山島に砲兵陣地を敷設し、「M2 155mmカノン砲(ロング・トム)」24門を設置して那覇を砲撃した。
東京から飛行機で約2時間半の沖縄の玄関口である。3階の南北両サイド滑走路側に展望デッキがあり、ここから慶良間諸島を見ることができる。
昭和19年(1944年)、戦線は南西諸島付近まで後退してきており、日増しに沖縄の軍備を強化する必要が高まっていた。
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昭和19年(1944年)、戦線は南西諸島付近まで後退してきており、日増しに沖縄の軍備を強化する必要が高まっていた。沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見おろす標高74メートルの火番森あるいは七四高地と呼ばれる丘が選定された。丘から那覇空港方面を望む。(←)
昭和19年(1944年)8月10日に海軍第二二六設営隊(約3000名)によって司令部壕の工事が開始され、同年12月に完成した。壕は枝分かれした全長約450メートルの坑道といくつかの部屋からなっている。(→)
壕の内部が見学できるほか、ビジターセンターには当時の道具や装備品、戦地から家族に宛てた手紙などが展示されている。(←)
昭和33年(1958年)に沖縄海友会によって丘の上に「海軍慰霊之塔」が建立された。1970年3月、壕内のうち長さ300メートルの区域が復元され、「海軍司令部壕跡」として一般に公開されるようになった。(→)
・資料館展示 ・壕内 ・慰霊塔
西原営業所から33番糸満西原線、46番糸満西原線、県庁北口から101番平和台安謝線で「豊見城公園前」バス停下車。
バス停付近で県道7号線はカーブしており、ここに信号のある交差点がある。この交差点から南東に伸びる路地に入る。 信号から路地を200mほどいくと突き当たるので、ここを右に曲がる。150mほどで海軍壕公園の東ゲートに出る。
なお、車で来る場合は、那覇市中心部から国道58号線を道なりに南に行くと国道331号線と名前が変わる。那覇港を越えて橋を渡ったあたりにある山下交差点を左折して、県道7号線に入る。
3kmほどで県道7号線は右に緩やかに大きく曲がり、この先の信号のある交差点が上述の「南東に伸びる路地」のある交差点である。
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