・泊城(とまりぐすく)公園 ・読谷補助飛行場跡 ・掩体壕 ・忠魂碑 ・読谷村立歴史民俗資料館 展示内容詳細はこちら ・チビチリガマ
昭和20年(1945年)4月1日、米軍は沖縄本島中西部のこの地に上陸を行った。現在この一帯の海岸は「泊城公園」として整備されている。(←)
対する日本軍は水際作戦を放棄し、南部で持久戦を行う方針であった。そのため、米軍はほとんど抵抗を受けることなく4月4日には中部の東海岸に到達し、沖縄本島を南北に分断した。
「泊城公園」の比謝川に面した高台に「米軍上陸の地」碑がある。中央の碑は反戦への祈念が刻まれ、左側の碑は米軍上陸後の揚陸作業の様子が示されている。(→)
右側の碑は米軍が「泊城公園」の付近から上陸を行った様子が模式図で表されている。なお、この場所からは、比謝川を挟んだ向こう側に米軍が上陸してきた海岸が良く見渡せる。(←)
「米軍上陸の地」碑のある高台の下は比謝川の河口となっており、ここの崖の下には「特攻艇秘匿壕跡」が複数遺されている。(→)
特攻艇(四式肉薄攻撃艇:通称マルレ)は装甲のないベニヤ製の船体にトラック用のエンジンを搭載したモーターボートで、250kg爆雷を搭載していた。夜間に数十隻で体当たり攻撃を行う戦術であった。
しかしながら、陸戦に基地ごと巻き込まれてしまい出撃できないことも多く、米軍側にはこの付近で特攻艇の攻撃を受けたという記録は残ってない。
壕は入り口に柵が設けてあるものもあるが、柵がなく中に入ることができるものもある。元は自然壕だったものを拡張したものであろうか、壕は入り口から四角い形をしており、まっすぐと奥に伸びていて人工的に手を加えた印象である。(←)
奥に進むと砂や漂流物が堆積しているようで、かがまないと進めないくらい天井が低くなっていくが、奥行きは20m以上ありそうである。(→)
比謝川河口を少し川上側に行ったところには「沖縄海底電信線記念碑」がある。(←)
1896年、鹿児島−沖縄間に海底電信線が敷設され、この地で陸揚げされた電線はここから那覇に架空電信線で結ばれた。さらに1905年にはヤップ島線の海底電信線もこの地に陸揚げされた。しかし、大東亜戦争中にこれらの海底電信線施設は破壊された。(→)
那覇バスターミナルから28番読谷(楚辺)線、29番読谷(喜名)線、「大湾」バス停下車。約1時間20分。
道沿いに50mほど南(那覇方面から進行方向逆)に戻ると、大湾の交差点があるのでここを右折して県道16号線に入る。道なりに1.5kmほど行くと突き当たりに出るので、ここを右折する。
なお、車で来る場合は、那覇方面から国道58号線を北上し、嘉手納飛行場を越えて比謝川にかかる橋を渡ったところが大湾交差点である。
なお、大湾交差点から800mあたりのところで道は二手に分岐するが、ここは左側をすすむ。
突き当りを右折してから150mで比謝川河口海岸に出られる階段がある。沖縄海底電信線記念碑はここにある。
階段を下りて右手の岩場を進んでいくと、崖の下に複数の「特攻艇秘匿壕跡」がある。「沖縄海底電信線記念碑」の右手に遊歩道があり、ここを100mほど進んだ左手に米軍上陸の地碑がある。ちょうど「特攻艇秘匿壕跡」の上あたりの見通しの良い高台である。
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昭和18年(1943年)6月に読谷村において飛行場の建設が開始され、昭和19年(1944年)6月以降、「沖縄北飛行場」として稼動を始めた。この飛行場は台湾沖航空戦やフィリピン作戦の中継基地として使用された。昭和20年(1945年)3月末日、米軍上陸を目前として地上部隊は南部方面に撤退し、飛行場は放棄された。
現在の「読谷補助飛行場跡」の航空写真からは「滑走路跡」・「誘導路跡」・「駐機場跡」がはっきりと分かる。(←)
「滑走路跡」はそのまま二車線道路として舗装されて一般車も通行できるようになっているが、道路の両側は滑走路面がそのま遺されている。(→)
昭和20年(1945年)4月1日、本島中西部に上陸した米軍の第一目標は「沖縄北飛行場」・「沖縄中飛行場」であったが、日本軍部隊は既に南部方面に撤退しており、米軍は上陸当日に両飛行場を占領した。
「滑走路跡」脇に「読谷村の記念碑」が建てられている。読谷村は米軍の上陸地点となったため一面が焦土と化し、村民は3700人余りが犠牲となった。また、現在も村土の47%が米軍基地となっている。村民の不戦への願いは強い。(←)
「滑走路跡」北端から南側を望む。「滑走路跡」北側500mほどは舗装されていない。(→)
米軍は4月3日に占領した飛行場の運用を開始し、沖縄戦終結後は本土への攻撃基地として使用した。「沖縄北飛行場」は米軍占領後に滑走路と駐機場は増設され、1500mの滑走路は2000mに延長された。戦後も米軍基地として米軍管理下に置かれていたが、平成18年(2006年)に全面返還された。
「滑走路跡」西側には「誘導路跡」が遺されている。「誘導路跡」をそのまま道路に利用している部分と、「誘導路跡」から若干ずれた位置に新しい道路が建設されている部分がある。(←)
「誘導路跡」両側には「駐機場跡」が遺されている。(→)
那覇バスターミナルから29番読谷(喜名)線、「座喜味」下車。約1時間30分。
ここから700mほど南にいくと、旧滑走路面上に作られた舗装道路となる。舗装路が始まったあたりの右手に「平和の森球場」があり、その前に「読谷村の記念碑」がある。
バスは県道12号線沿いを走っているが、バス停から道なりに500mほど東(那覇方面からみて進行方向逆)にいったあたりの右手に広い砂利道がある。ここが「滑走路跡」北端である。
球場の南側の道に入って300mほど行くと、左手に読谷村役場がある。役場を回りこむように左折したところが「誘導路跡」に作られた道である。この道の両側に「駐機場跡」がある。
なお、車で来る場合は、那覇方面から国道58号線を北上し、嘉手納飛行場を超えて4kmほどのところの伊良皆(北)交差点(T字路)を左折する。T字路から1kmほどのところで、広い道に突き当たりT字路となるが、ここが滑走路跡である。
このT字路を右折して500mほどいったあたりの左手が「読谷村の記念碑」である。なお、伊良皆(北)交差点は伊良皆交差点より1.5kmほど北に位置するので、混同しないように注意。
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「読谷補助飛行場跡」の近くに、日本軍が敵の攻撃から軍用機を保護するために作った「掩体壕」が残されている。(←)
「掩体壕」の前には説明板があり、壕内に残された戦闘機の残骸の写真を見ることができる。この周辺には当時「掩体壕」がたくさん造られたが、そのほとんどが取り壊されてしまい、現在遺されているのはこの一つだけである。沖縄戦以降の読谷村の歴史を見つめてきた貴重な遺跡を保存するため、村は平成21年(2009年)1月にこの「掩体壕」を史跡に指定した。(→)
土を盛った上にコンクリートを流し、固まった後に中の土を除去して造られた。資材も乏しい状態での急造であり、鉄筋なども入っていないもろい作りである。(←)
除去した中の土はコンクリートの上にかぶせて草が生えるようにし、上空の敵機から目立たないように工夫された。現在はコンクリートがむき出しとなっている。(→)
「平和の森球場」までは<「読谷補助飛行場跡」の歩き方>を参照。「滑走路跡」から球場の北側の道にそって西へ行くと、道の両側に運動場がある。
右側の運動場に沿って北側に回りこんでいくと、広い道がの突き当たりの部分に出る。この道の50mほどのところの左手に小道がある。この小道を150mほどいった右手に「掩体壕」がある。
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「掩体壕」の少し南には「忠魂碑」がある。(←)
石碑の文字は大部分が削り取られている。(→)
「慰霊碑」が戦争での死者を弔う碑であるのに対し、「忠魂碑」は天皇陛下のために戦死した軍人を弔う碑である。そのため、軍国主義の忌まわしい遺物として捉えた人がこの「忠魂碑」を壊したものと考えられている。 しかし、それらの状況も全て含めて残された遺物を後世に伝えていくことが必要ではないだろうか。
「掩体壕」の近くである。
<「掩体壕」の歩き方>に出てくる「広い道の突き当たり部分」から右手(北東方向)に伸びる小道を200mほど行ったところの十字路の南側の角にある。
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この資料館には歴史民族資料のほか、沖縄戦の遺物が収集され展示されている。(←)
「座喜味城跡」のすぐ近くである。(→)
・館内展示
那覇バスターミナルから29番読谷(喜名)線、「座喜味」下車。約1時間30分。
バス停から50mほど西(那覇方面からは進行方向)のところの十字路を右折する。道なりに700mほど登り道を行くと右手に資料館がある。「座喜味城跡」の南の出入りのところである。
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読谷村にある自然壕であり、ここに避難した住民が83人集団自決した場所である。内部には未だ遺骨や遺品が眠っており、現在は遺族会の意志によって立ち入りが禁止されている。(←)
入り口付近には平和の像のほか、「石碑」がある。「石碑」には平和への祈りと自決した住民の氏名が刻まれている。(→)
那覇バスターミナルから28番読谷(楚辺)線、「大当」バス停下車。約1時間30分。
バス路線の通る県道6号線は大当の信号付近で右へカーブしていく。信号のところの、道なりにほぼ直進するような形で伸びる道(北向き)を進む。
700mほどで右手に赤瓦のトイレがあり、ここに谷へと下りていく階段がある。階段をおりたところの左手に壕の入り口がある。
なお、車で来る場合は、那覇方面から国道58号線を北上し、嘉手納飛行場を越えて5kmほどのところの喜名交差点(T字路)で県道12号線に左折して入る。T字路から5kmほどの高志保交差点で県道6号線へと左折する。6号線に入って1kmほどの大当交差点があるので、ここを鋭角に右折する。
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