陸上自衛隊新発田駐屯地

新潟県

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「陸上自衛隊新発田駐屯地」

「陸上自衛隊新発田駐屯地」の展示内容

「歩兵第十六連隊に関する展示」

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 新発田城の模型が展示されている。(←)
元々、ここには下越の豪族新発田氏の築いた新発田城があり、その後は溝口氏の居城となって栄えた。模型はその時の新発田城の様子である。現在の「陸上自衛隊新発田駐屯地」は、新発田城の本丸と二の丸の一部にあたる。

歩兵第十六連隊の歴代連隊長である。(→)
明治17年(1884年)6月に連隊が創設されてから昭和20年(1945年)まで、歴代の連隊長は28名、特に第24代連隊長の宮崎繁三郎大佐(当時)は戦上手として有名である。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 「資料館」として使用されていた「白壁兵舎」は、平成22年(2010年)12月に解体修理が開始された。平成25年(2013年)に完了する予定である。(←)

歩兵第十六連隊の連隊歌である。(→)
本間雅晴陸軍中将の作である。本間中将は、新潟県佐渡島の出身で、陸軍少尉任官後、新発田市の歩兵第十六連隊に配属された。大東亜戦争に於いてはフィリピン諸島の攻略を指揮した。しかし、昭和21年(1946年)、フィリピン諸島に於ける連合軍捕虜の死亡の責任を問われて処刑された。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 「新発田陸軍病院」で使用されていた「衝立(仕切り板)」である。戦後、「新発田陸軍病院」は「県立新発田病院」となり、この「衝立」は「県立新発田病院」から「資料館」に寄贈された。(←)

日露戦争に関する展示である。(→)
明治37年(1904年)2月〜明治38年(1905年)9月にわたった日露戦争に於いて、歩兵第十六連隊(新発田市)と歩兵第三十連隊(五泉市村松)は、日本陸軍の第一軍第二師団隷下の連隊として出征、明治38年(1905年)5月以降、中国東北部に於ける戦闘に参加した。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 日露戦後の明治38年(1905年)12月、歩兵第十六連隊は新発田市に凱旋した。その後も、大正8年(1919年)9月〜大正10年(1921年)5月、第十三師団隷下の連隊としてシベリアに出動(シベリア出兵)した。

「歩兵第十六連隊史(創設〜大東亜戦争)」(左)と「歩兵第十六連隊歴史抜粋(創設〜満州帰還)」(右)。(←)

「歩兵第十六連隊征戦史」(左)、「三十周年記念 日露戦役回顧写真帳」(中)、「歩兵第十六連隊第一大隊 戦役記念帳」(右)。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 日露戦争当時の品々。(←)
中央は「名誉の軍帽」。「軍帽」は、遼東半島南端の旅順の203高地で戦死した兵士が被っていた。上部に弾丸の貫通した穴と血の染みが残っている。
「軍帽」の右は、ロシア軍司令官ステッセル将軍の「勲章」だそうである。他にも当時の日本軍の「飯盒」や、日露両軍の「小銃弾」、歩兵第十六連隊に贈られた「感状」が展示されている。

明治時代から大正時代にかけて、歩兵第十六連隊や連隊の将兵個人に贈られた「感状」や「勲章」、当時の「軍帽」等。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 満州事変に関する展示。(←)
昭和6年(1931年)9月、中国東北部に於いて満州事変が勃発した。この時、歩兵第十六連隊は同年4月から満州警備の為に同地に駐屯しており、直ちに出動して満州に於ける戦闘に参加した。
その後も歩兵第十六連隊は、昭和12年(1937年)7月に支那事変が勃発すると山西省での作戦に従事し、昭和14年(1939年)5月に発生したノモンハン事件にも出動するなど、重要な作戦の多くに参加した。

「支那事変従軍記章」や射撃大会の「賞状」、昭和に入ってからの品々である。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) コヒマから帰還した「鉄帽」(中央の箱の中)。(←)
昭和50年(1975年)3月、インド(コヒマ・インパール)への第一次遺骨収集団が、現地人(コヒマのナガ族)より譲り受けて持ち帰った。昭和19年(1944年)3月にビルマ・インド方面で開始されたインパール作戦には、第三十一師団隷下の歩兵第五八連隊(新発田市)が参加し、大きな損害を出した。

歩兵第十六連隊の第26代・第28代連隊長であった堺吉嗣大佐の遺品。堺大佐は歩兵第十六連隊の最後の連隊長として、ビルマ方面に於ける戦闘を指揮した。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 宮崎繁三郎陸軍中将の遺品の軍服・軍帽。(←)
宮崎中将は、大佐時代に歩兵第十六連隊の連隊長としてノモンハン事件に出動、戦上手として知られ、少将時代には第三十一師団歩兵団長としてインパール作戦に参加、巧みな後退戦闘を展開した。

山下奉文陸軍大将の遺品の軍服。(→)
山下大将は、第二十五軍司令官として大東亜戦争開戦劈頭のマレー半島シンガポールの攻略作戦を指揮し、これを成功させた。大東亜戦争末期は第二十五方面軍司令官としてフィリピン諸島ルソン島の防衛を指揮した。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 各種小銃が展示されている。(←)
上から「九九式小銃」「四四式騎兵銃」「三八式騎兵銃」「三八式歩兵銃」、一番下はロシア軍の「モシン・ナガン M1891」である。左側には「三十年式銃剣」が展示されている。

九二式重機関銃」(→)
昭和14年(1939年)に正式採用された日本陸軍の重機関銃で、支那事変から大東亜戦争全般を通して使用された。重量は55.3 kg(三脚含む)、口径は7.7mm。約45000挺が製造され、各地の戦場で威力を発揮した。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) この「九二式重機関銃」は、昭和46年(1971年)、政府派遣遺骨集集団がソロモン諸島ガダルカナル島から遺骨と共に持ち帰還した。現地人のニッパハウスの下に放置されていたそうである。(←)

九二式重機関銃」の「保弾板」である。(→)
「保弾板」には「九二式実包(口径7.7mm)」30発が取付けられた。発射速度は毎分450発で、各国の機関銃と比較するとやや遅かったが、この遅い発射速度と銃身・三脚の重量(55.3 kg)とが相まって弾丸の収束性に優れ、命中精度が非常に高かったという。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 大東亜戦争に関する展示。(←)
歩兵第十六連隊は、昭和17年(1942年)3月、蘭印(オランダ領インドネシア)のジャワ島攻略作戦に参加し、現地のオランダ軍を撃破してジャワ島を占領した。その後は、同年10月からソロモン諸島ガダルカナル島の攻防戦に参加、ガダルカナル島の米軍飛行場に対して攻撃を行ったが、大きな損害を受けた。その後も、ビルマ北部や雲南(中国の南部)に於ける作戦に参加するなど、常に激戦地での過酷な戦闘を経験してきた。

連隊の関係者から寄贈された品々。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 新潟県出身の著名な軍人である。(←)
左から、建川美次陸軍大将(新潟市)、鈴木荘六陸軍大将(三条市)、山本五十六元帥(長岡市)、本間雅晴陸軍中将(佐渡島)。
山本元帥は昭和18年(1943年)に戦死、本間中将は昭和21年(1946年)に連合軍の報復的な戦犯裁判によって刑死した。

米軍の「250kg爆弾」。(→)
昭和20年(1945年)8月、群馬県太田飛行場に投下されたが不発弾となった。昭和40年(1965年)5月、陸上自衛隊が回収と処理をした。

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 日本陸軍の軍服である。(←)

左端と左から3番目は「九八式軍衣」で、昭和13年(1938年)に制定された。支那事変から大東亜戦争にかけて最も一般的な軍服(軍衣)であった。他は儀式用の正装で、特に重要な儀式のときに着用した。
左端の軍衣には少佐の、左から3番目の軍衣には中将の階級章が付いている。将校の場合、これらの軍衣は全て自費調達であった。

鉄帽(ヘルメット)、飯盒、水筒等の装備品。何れも本人や遺族からの寄贈である。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 日本陸軍に於いて、軍旗(連隊旗)は天皇陛下から賜った神聖なものであった。
左の額は、上が歩兵第百十六連隊の軍旗竿頭の菊花の一部と軍旗の房である。昭和20年(1945年)8月28日、歩兵第百十六連隊の解隊に伴って軍旗が奉焼されたが、この時、これを惜しむ多くの兵士が竿頭の菊花や軍旗の一部を切取って持ち帰ったという。 下が歩兵第百十六連隊の第6代連隊長岩下栄一氏の認識票と階級章。本人から寄贈された。
右の額は、軍旗の遺灰である。(←)
連隊創設以来、多くの戦役を経て房だけになった歩兵第十六連隊の軍旗。(→)

歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 歩兵第十六連隊に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 現在の陸上自衛隊の階級章(左)と、当時の日本陸軍の階級章(右)。(←)
現在、自衛隊では幹部(将校)の階級を表す際に、大中小ではなく一等二等三等と表している。

外国製の拳銃。(→)
日本陸軍に於いて、将校の装備品は全て自費調達であった。その為、将校が護身用に装備していた拳銃も各自自費で購入していた。偕交社で国産拳銃を購入する将校が多かったが、懐に余裕のある将校の場合、外国製の拳銃を購入して装備する事もあったという。

「自衛隊の活動に関する展示」

自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 自衛隊の活動に関する展示である。(←)

現在、「陸上自衛隊新発田駐屯地」には第12旅団第30普通科連隊を主力とする舞台が駐屯している。第12旅団は、平成13年(2001年)3月末に第12師団から改編された、空中機動に特化した部隊である。

「ブローニング M2 12.7mm重機関銃」(→)
原型は大正7年(1918年)に開発された米陸軍の重機関銃で、第一次世界大戦以降、各国で使用されてきた優秀な重機関銃である。現在も自衛隊を始め、各国で採用されている。

自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 災害派遣に関する展示である。(←)
災害派遣は自衛隊の重要な活動のひとつである

国際平和維持活動(PKO)に関する展示である。日本の自衛隊は、世界各国でのPKO活動に於いて、規律の高さと高度な技術力によって高い評価を受けている。(→)
陸上自衛隊新発田駐屯地」からもイスラエル北部のゴラン高原や、イラクのサマーワなどに隊員を派遣した。後ろに見えるのは、新発田歩兵第十六連隊戦友会から、イラクへ派遣される隊員に贈られた「日の丸の旗」。

自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 自衛隊の活動に関する展示(陸上自衛隊新発田駐屯地) 陸上自衛隊新発田駐屯地」に於ける、隊員の各種競技会の様子。(←)

陸上自衛隊新発田駐屯地」は、八甲田山での雪中行軍を描いた、映画「八甲田山」(1977年:日本)の製作にも協力した。(→)
昭和51年(1976年)10月17日と昭和52年(1977年)2月13日〜14日にわたって撮影が行われ、「白壁兵舎」を使用して当時の青森歩兵第五連隊の兵営に於けるシーンが撮影された。
また、当時の隊員多数も兵士役のエキストラとして参加した。

「駐屯地内の遺構」

駐屯地内の遺構(陸上自衛隊新発田駐屯地) 駐屯地内の遺構(陸上自衛隊新発田駐屯地) 「白壁兵舎」(2011年現在は解体修理中)(←)
明治7年(1874年)建てられた歩兵十六連隊の兵舎で、現存する兵舎としてはほぼ最古である。フランス様式の白い壁が特徴であった。戦後も現存する歩兵第十六連隊時代の遺構であり、「白壁兵舎」として親しまれ、「陸上自衛隊新発田駐屯地」の「資料館」として使用されてきた。

「明治天皇行幸記念碑」(→)
明治11年(1878年)9月19日、明治天皇の新発田市への行幸を記念して、昭和8年(1933年)11月3日(明治節)に建てられた。

駐屯地内の遺構(陸上自衛隊新発田駐屯地) 駐屯地内の遺構(陸上自衛隊新発田駐屯地) 「新発田城の三層櫓」(復元)(←)
三層の櫓は全国的にも非常に珍しい。

明治初期の「三層櫓」。三方の最上階屋根と、3匹の鯱が載った特異な構造である。(→)

新発田城は明治5年(1872年)頃に殆ど取壊されてしまったが、平成16年(2004年)7月25日、「三層櫓」や「辰巳櫓」が復元され、周辺は新発田城址公園として整備されている。現在、「三層櫓」は新発田市のシンボルとなり、ここも「お城の自衛隊」として親しまれている。(復元の詳細

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