新潟県護国神社

新潟県

新潟県の戦跡
大東亜戦争における新潟県の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「新潟県護国神社」

「新潟県護国神社」の概略および歩き方
展示内容詳細

「新潟県護国神社」の展示内容

「墓苑内の慰霊碑」

墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 「戊辰の役殉難者墓苑」(←)
明治元年(1868年)に勃発した戊辰戦争に於いて、信越や東北の諸藩は旧幕府軍(東軍)として新政府軍(西軍)と戦った。西軍は明治元年(1868年)年7月25日に新潟県の松ヶ崎に上陸、これに対する東軍(米沢藩・会津藩・庄内藩)との戦闘は29日まで続き、新潟市は焦土と化した。
明治8年(1875年)、新潟市常盤ヶ丘にこの時の東軍戦没者を祀る「招魂社」が建立され、昭和20年(1945年)にこの「墓苑」に移された。(→)
また、「墓苑」には、大東亜戦争に於ける戦没者を慰霊する為の「慰霊碑」も建てられている。

墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 「満州開拓殉難者の碑」(←)
明治38年(1905年)9月の日露戦争の勝利によって、日本は満州(中国東北部)に於ける権益を国際的に認められた。以降、満州には多くの開拓団や開拓民が移住し、新天地の開墾に情熱を燃やした。
併しながら、昭和20年(1945年)8月9日、日ソ不可侵条約を無視してソ連軍が満州への侵攻を開始した。ソ連軍は非戦闘員であった開拓移民にも攻撃を加え、多くの開拓移民が死亡した。新潟県出身者だけでもその数は約5000名に上った。
「碑」は、昭和34年(1959年)8月15日、新潟県開拓民自興会によって建立された。(→)

墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 「綏芬河の碑」(←)
満州の開拓には、全国で満州開拓民青少年義勇隊が結成され、大勢の若者が参加した。新潟県からも、昭和18年(1943年)6月、新潟県郷土中隊として299名が満州(中国東北部)に渡り、綏芬河義勇隊訓練所に入所した。しかし、昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍が突如満州(中国東北部)に侵攻を開始、綏芬河義勇隊訓練所でも無抵抗の隊員約40名がソ連軍に殺害され、その後も内地への逃避行に於いて多くの隊員が死亡した。
「碑」は、平成3年(1991年)3月、元義勇隊有志によって建てられた。(→)

墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 墓苑内の慰霊碑(新潟県護国神社) 「コヒマ戦没者之碑」(左)と「ビルマ戦歿者碑」(右)(←)
昭和19年(1944年)3月〜6月、印緬(インド・ビルマ)国境のインパールとコヒマで実施されたインパール作戦は、約3万名の戦没者を出して敗走した。その多くは補給の途絶による餓死や病死であった。インパール作戦の結果、ビルマ方面の防衛線は崩壊、終戦までに同方面での戦没者は約18万名に登る。

「コヒマ戦没者之碑」は、昭和53年(1978年)9月17日、独立輜重兵第五十五中隊の関係者によって建立された。「ビルマ戦没者碑」は、昭和48年(1963年)12月、ビルマ方面軍司令部員であった本間由雄氏によって建立された。(→)

「参道付近の慰霊碑」

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「慰霊之碑」平成5年(1993年)5月、全国強制抑留者協会新潟県支部によって建立された。(←)(→)
昭和20年(1945年)8月9日、アメリカ・イギリスとの密約に基づき、ソ連軍は日ソ不可侵条約を一歩的に破棄し、満州や千島列島に侵攻を開始した。
そして、昭和20年(1945年)8月15日に日本政府がポツダム宣言を受諾した後も、これを無視して戦闘を継続、更に、停戦後に武装解除した軍人軍属や民間人約107万名をシベリアに連行、数年間にわたって抑留して強制労働に従事させた。このシベリア抑留によって約34万名の日本軍将兵・軍属・民間人が死亡、新潟県でも約1600名が還らなかった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「近衛歩兵第三連隊慰霊塔」(←)

近衛歩兵第三連隊は、明治18年(1885年)に編成された近衛師団隷下の連隊であった。近衛師団は、天皇陛下と皇室の警護を目的として創設され、全国から選抜された優秀な将兵が配属された。
近衛師団は、日清戦争、日露戦争、支那事変に従軍し、大東亜戦争緒戦に行われたマレー半島シンガポールの攻略作戦に参加した。

横の「石碑」には、近衛歩兵第三連隊に於ける新潟県出身戦没者の氏名が彫られている。(→)

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「歩兵第百十六連隊第三中隊慰霊碑」(←)(→)

歩兵第百十六連隊は、昭和12年(1937年)9月、第十三師団隷下として、新発田市の歩兵第十六連隊を基幹に編成された。
同年10月に上海に上陸し、翌昭和13年(1938年)以降、南京攻略、徐州会戦、武漢攻略に参加した。その後も中国各地を転戦して多くの作戦に参加し、昭和20年(1945年)、中国で終戦を迎えた。

「碑」は平成5年(1993年)8月15日に建立された。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「元歩兵第116連隊第二中隊の樹 植樹記念碑」(←)(→)

歩兵第百十六連隊は、昭和12年(1937年)9月、第十三師団隷下として、新発田市の歩兵第十六連隊を基幹に編成された。
同年10月に上海に上陸し、翌昭和13年(1938年)以降、南京攻略、徐州会戦、武漢攻略に参加した。その後も中国各地を転戦して多くの作戦に参加し、昭和20年(1945年)、中国で終戦を迎えた。

「碑」は平成3年(1991年)4月15日に建立された。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「慰霊平和の碑」(←)(→)
平成6年(1994年)3月、皇太子徳仁殿下と雅子妃殿下の御成婚記念と戦没者慰霊の為、新潟県出身の元近衛歩兵第一連隊関係者によって建立された。

近衛歩兵第一連隊は陸軍最初の歩兵連隊として編成され、明治7年(1874年)1月23日に軍旗を拝授。
その後、西南戦争・日清戦争・日露戦争・支那事変にに従軍した。大東亜戦争に於いては、緒戦のマレー半島の攻略に参加、その後は昭和20年(1945年)に解隊するまで、皇居北の丸(北の丸公園)に駐屯し、皇居の警備に任じた。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「空碧雲流の碑」(←)(→)
平成9年(1997年)9月、新潟県出身の海軍飛行予備士官戦没者を慰霊する為、元海軍飛行予備学生の関係者によって建立された。
海軍飛行予備学生制度は、旧制大学・高等専門学校を卒業した志願者から採用した予備士官制度で、昭和9年(1934年)に第一期生5名が採用された。その後、大東亜戦争での熾烈な航空戦による士官搭乗員を補う為に採用人数も増え、特に、昭和18年(1943年) 月以降、学徒出陣によって多数の学生が飛行科予備士官として馳せ参じた。戦死した海軍特攻隊員の8割以上は予備学生出身者であった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「鎮魂慰霊之碑」(←)

平成7年(1995年)、新潟県海交会によって建立された。海交会は旧日本海軍関係の方々による戦友会である。

「碑」は、新潟県出身で戦没した海軍の軍人や軍属を慰霊するために建てられた。(→)
大東亜戦争に於いて、海軍ではの軍人・軍属約47万名が祖国を護る為、島嶼や南海、そして空に散っていった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「予科練鎮魂之碑」(←)(→)
新潟県出身の海軍飛行予科練習生戦没者の慰霊の為に建立された。
海軍飛行予科練習生(予科練)制度は、昭和4年(1929年)12月に制定され、翌年6月に第一期生が入隊、以後、3年間の教育で海軍航空隊下士官搭乗員の養成を行った。当時の少年たちにとって、予科練は陸軍少年飛行兵と並んで憧れの的であり、7つボタンの制服はそのシンボルであった。大東亜戦争末期、下士官搭乗員の不足を補う為に募集人員が大幅に増やされたが訓練期間は短縮された。そして、多くの若者が特攻隊員として散っていった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「慰霊植樹の碑」(←)(→)
歩兵第十六連隊第三機関銃中隊の昭和十五年兵戦友会によって建立された。当時、兵役は国民の義務であり、陸軍の兵役期間は現役2年間であった。昭和15年(1940年)に入営した場合、最短でも昭和16年(1941年)まで兵役に就いたはずである。
歩兵第十六連隊(新発田市)は、昭和15年(1940年)10月、中国から新発田市に帰還、昭和16年(1941年)10月に臨時編成下令。それ以降は、大東亜戦争緒戦の昭和17年(1942年)3月、蘭印(オランダ領インドネシア)ジャワ島の攻略作戦に参加、10月にはソロモン諸島ガダルカナル島に上陸して戦った。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「植樹記念の碑」(←)(→)

第十三師団歩兵第十六連隊第二歩兵砲小隊戦友会によって建立された。

歩兵第十六連隊(新発田市)は、第二師団隷下の連隊であったが、明治41年(1911年)から大正14年(1925年)5月まで第十三師団に編入されていた。
この間、大正8年(1919年)9月に第十三師団隷下として動員され、シベリア出兵に参加した。大正10年(1921年)5月には新発田市に帰還し、大正14年(1925年)5月、再び第二師団に編入された。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「軍馬の霊を慰む(軍馬の慰霊碑)」(←)
古来より陸上戦闘の主役であった騎兵は、20世紀初頭、機関銃や戦車の登場によってその価値を減じた。しかし、各国陸軍の砲兵や輜重兵にとって、馬は依然として重要な輸送手段であった。
日本陸軍でも馬を重要な輸送手段として位置づけ、日本各地の軍馬補充部で馬の飼育と調教を行い、軍馬として各地の戦場に送り出した。
戦地での軍馬は実によく働き、世話をする日本軍将兵と強い絆で結ばれていた。しかし、悪化する戦況と戦場での過酷な任務によって、殆どの軍馬は生きて再び戻る事は無かった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「鎮魂の碑」(←)(→)

平成元年(1989年)5月、第十三師団歩兵第百十六連隊第七中隊戦友会によって建立された。

歩兵第百十六連隊は、昭和12年(1937年)9月、第十三師団隷下として、新発田市の歩兵第十六連隊を基幹に編成された。
同年10月に上海に上陸し、翌昭和13年(1938年)以降、南京攻略、徐州会戦、武漢攻略に参加した。その後も中国各地を転戦して多くの作戦に参加し、昭和20年(1945年)、中国の衝山で終戦を迎えた。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「戦没軍犬慰霊碑」(←)(→)
平成2年(1990年)4月、元関東軍軍犬育成所員によって建立された。軍犬の横顔が彫られている。

軍用犬(軍犬)が組織的に使用されるようになったのは、20世紀初頭、第一次世界大戦前後であった。日本陸軍でも大正8年(1919年)から本格的に軍犬の養成を開始、その任務は伝令・警戒・捜索であった。軍犬は優れた運動能力や知覚能力、そして高い忠誠心によってこれらの任務を実によくこなし、部隊の将兵から非常に信頼された。しかし、苛烈な戦場で多くの軍犬が命を落としていった。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「近衛歩兵第二連隊軍旗拝受百周年記念碑」、昭和49年(1974年)8月、近歩二会新潟県支部によって建立された。(←)(→)
近衛歩兵第二連隊は、明治7年(1874年)1月23日、近衛歩兵第三大隊と同第四大隊を基幹として編成され、軍旗を拝授した。近衛歩兵第一連隊と並んで日本陸軍最初の歩兵連隊であった。
その後、西南戦争・日清戦争・日露戦争・支那事変にに従軍した。大東亜戦争に於いては、緒戦のマレー半島の攻略に参加、その後は昭和20年(1945年)に解隊するまで、皇居北の丸(北の丸公園)に駐屯し、皇居の警備に任じた。

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「陸軍少年飛行兵新潟県出身戦没者慰霊の碑」、昭和60年(1985年)11月に建立された。(←)
陸軍少年飛行兵制度(少飛)は、昭和9年(1934年)に始まった陸軍の航空要員(空中勤務者・地上勤務者)を養成する制度であった。海軍の予科練と並んで当時の全国の少年達の憧れであり、全国から優秀な人材が集まった。その為、非常に高い競争倍率であったという。終戦までの間に約45000名の卒業生が巣立ち、陸軍航空の主力を担う下士官航空要員として各地の戦場で活躍した。

題字は元内閣総理大臣中曽根康弘による。(→)

参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 参道付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「野戦重砲兵第十五連隊之碑」(←)(→)

野戦重砲兵第十五連隊は、昭和12年(1937年)6月1日、朝鮮半島北部の羅南に於いて、第十九師団山砲兵第二十五隊第四大隊を基幹に編成され、留守第十九師団隷下の砲兵連隊となった。
昭和20年(1945年)2月、留守第十九師団と留守第二十師団の一部から第七十九師団が編成された。その際、野戦重砲兵第十五連隊は、同年4月8日に戦闘序列が下令された第十七方面軍隷下の第五十八軍第十二砲兵司令部の指揮下に移った。新編の第十七方面軍は、米軍の侵攻に備えて朝鮮半島の守備に就き、第五十八軍は東シナ海の済州島に配置され、そこで8月15日の終戦を迎えた。

「拝殿付近の慰霊碑」

拝殿付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 拝殿付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「平和の礎」(←)
大東亜戦争に於いて、祖国の平和と郷土の繁栄を願って散華された新潟県の軍人、軍属、在外邦人、内地の戦災者の御霊を祀る為、昭和43年(1968年)3月に建てられた。
格子の扉を堺に、外陣と内陣に分かれている。

内陣には、散華された人々を現す「護国の柱」という「塔」があり、「塔」の前には平和を表す大理石の「礎石」がある。また、「礎石」の右側には「祈りを現す「女性像」が、左側には誓いを現す「男性像」がある。(→)

拝殿付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 拝殿付近の慰霊碑(新潟県護国神社) 「明治大学戦没学徒忠霊殿」(←)(→)

明治大学は、その創設から大東亜戦争終戦までの間に、出陣学徒を主として多数の戦没者を出した。戦後の混乱で資料が失われ、その数は約2000名とも約3700名とも言われている。

明治大学では、昭和14年(1939年)、学内(駿河台旧図書館)に戦没者を祀る「忠霊殿」を建立、その後、昭和25年(1950年)に「新潟県護国神社」に移設された。平成12年(2000年)6月には本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が建立された。

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>>「大東亜戦争遺跡」へ戻る>>「日本」へ戻る>>「新潟県」へ戻る>> 「新潟県護国神社」へ戻る
                  >>「大東亜戦争遺跡(博物館・資料館)」へ戻る

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system