山本記念公園

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新潟県の戦跡
大東亜戦争における新潟県の歴史
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「山本記念公園」(山本元帥の生家)

「山本記念公園」の概略および歩き方
展示内容詳細

「山本記念公園」の展示内容

「山本元帥の生家」

山本記念公園 山本記念公園 「山本元帥の生家」である。(←)
山本元帥は、明治17年(1884年)4月4日、長岡藩の儒学者の家であった高野家の六男として生まれた。父親の高野貞吉が56歳であったことから、高野五十六と名付けられた。その後、長岡藩の家老の家である山本家の養子となり、大正5年(1916年)9月20日、改姓して山本五十六となった。

玄関には山本元帥の写真が掲げられている。家の中は自由に見学できるが、当然ながら土足厳禁である。中に入ると、4畳半の部屋があり、机と芳名帳が置かれている。(→)

山本記念公園 山本記念公園 1階には、4畳半1部屋と6畳2部屋、台所、厠がある。(←)
     玄関から入って直ぐ左は台所である。(→)

高野家の家は、元々は玉蔵員町の侍屋敷の一角にあったが、戊辰戦争で焼失。その後、敷地内にこの家を再建した。当時の住所は、新潟県長岡市坂之上町二丁目七四三番地であった。しかし、この家も、昭和20年(1945年)8月1日、米軍による空襲で焼失。
昭和33年(1958年)11月3日、「山本元帥誕生地記念公園(山本記念公園)」が造られ、その敷地内に「生家」が復元された。

山本記念公園 山本記念公園 玄関から入って右手には6畳間が2部屋ある。(←)
玄関から近い6畳間(@)には、山本元帥の位牌や、連合艦隊司令長官の時の写真、少年時代の写真、額、胸像等が置かれている。

山本長官の胸像(石膏製)である。戦後に霞ヶ浦から引き上げられた銅像の上部を基にして製作され、公園の胸像の型となった。
胸像の上には山本元帥が座右の銘とした「常在戦場の額」が掲げられている。山本元帥は、揮毫を依頼されると好んで「常在戦場」と書いたという。(→)

山本記念公園 山本記念公園 山本元帥の位牌と連合艦隊司令長官時代の山本長官の写真。(←)

玄関から遠い6畳間(A)(→)

昭和10年(1935年)4月14日に母校の「阪之上小学校」で講演した際の写真や、昭和7年(1932年)の婚礼の際の写真、戦地から送った手紙等が展示されている。

山本記念公園 山本記念公園 2つの6畳間の外側には板張りの廊下がある。(←)

廊下の先には厠がある。(→)
手前が小用、奥が大用、展示用の厠なので実際に使用してはいけない。

どうしてもトイレが必要な場合は、「山本記念公園」から西に50m程の所にある「明治公園」の公衆トイレを使用する事。

山本記念公園 山本記念公園 玄関から入って直ぐ右手、6畳間(@)との間に2階にあがる階段がある。(←)

古い木造家屋である為、大人数が同時に2階にあがると危険である。2階を見学する場合は2人〜3人づつあがる事。

2階は、6畳1部屋、4畳1部屋、2畳1部屋と物置がある。階段を上がって直ぐ左側が、6畳1部屋と4畳1部屋がある、(→)

山本記念公園 山本記念公園 階段をあがって直ぐ右側に2畳の部屋がある。(←)
この2畳間が山本元帥が少年時代の勉強部屋であった。小さな机が1つ置いてある。

当時の勉強部屋の写真がある。(→)
五十六少年はこの部屋で勉学に励み、「旧制長岡中学校(現県立長岡高校)」から、明治34年(1901年)12月16日、「海軍兵学校」に見事次席入学(32期)を果たした。
当時、「海軍兵学校」は最難関の学校であり、日本中から秀才が集まった。海兵32期生には堀悌吉、嶋田繁太郎、吉田善吾等のそうそうたる顔ぶれがあった。

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