山本五十六記念館

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「山本五十六記念館」(山本元帥の遺品と乗機の残骸)

「山本五十六記念館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「山本五十六記念館」の展示内容

「山本元帥の遺品」

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 「山本五十六記念館」には山本元帥の遺品が多数展示されている。(←)

展示室は1部屋で、山本元帥の生い立ちから、海軍での軍歴、連合艦隊司令長官としての活躍が紹介されている。展示室の中央には山本元帥が戦死時に搭乗していた航空機の残骸が展示されている。(→)

尚、館内は撮影禁止である。今回は特別に許可を頂いたが、見学者は無断で撮影してはいけない。

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 山本元帥は、明治17年(1884年)4月4日、長岡藩の儒学者で高野家の六男として生まれた。この時、父であった高野貞吉が56歳であった為、高野五十六と名づけられた。(←)

五十六少年は、非常に勤勉実直であった。長岡中学校時代に愛読した「フランクリン自伝」(右)と「英語の勉学ノート」(左)が展示されている。五十六少年は、アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンを尊敬し、自らのノートに「不乱苦林(ふらんくりん)」と名づけて猛勉強をした。(→)

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 「最初の写真」(←)
明治25年(1892年)4月23日、五十六少年が阪之上尋常小学校3年の時である。中央が五十六少年、左隣が兄の季八、右隣が姉の加壽 、後ろが甥の力。

「五蔵院町(坂之上町3)の生家」(→)
元々、高野家の住まいは長岡城下の武家屋敷にあったが戊辰戦争で全焼、その後、敷地内(400坪)に小さな家を建て、そこが「五十六少年の生家」となった。
「生家」は、現在、「山本記念公園」に移築され、見学する事が出来る。

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 五十六少年は、明治34年(1901年)、旧制長岡中学校から海軍兵学校に入学し、明治37年(1904年)海軍少尉候補生となった。明治38年(1905年)には日露戦争に従軍して日本海海戦に参加、そして大正5年(1916年)、海軍大学校に在籍していた高野五十六海軍少佐(当時)は、長岡藩の名門山本家の養子となり、ここに山本五十六が誕生した。(←)

大正8年(1919年)から大正12年(1923年)、駐在武官や海外出張員と随行員して、アメリカやヨーロッパを歴訪、この時、アメリカの国力の強大さや世界に情勢を目の当たりにした。(→)

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 「山本元帥直筆の書」(←)
数々の書や手紙などから、山本元帥の誠意と慈愛に満ちた人柄が偲ばれる。

「愛用のトランプ」。(→)
山本元帥はギャンブル好きとしても知られ、特にトランプのブリッジを好んだという。

後ろに、駐米武官時代にアメリカで愛用していた「帽子」や、昭和9年(1934年)10月、ロンドン海軍軍縮予備交渉に参加した時、ロンドンで購入した「ステッキ」が展示されている。

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 昭和5年(1930年)以降、海軍航空本部等の航空畑を歩んだ山本少将(当時)は、航空機の将来性を見出し、海軍航空隊の育成に尽力した。また、軍縮条約締結を熱心に推進し、世界平和と日本の安全を強く願っていた。(←)

昭和9年(1934年)9月、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に出席した際の「パスポート」。(→)
この時、郷里の偉人であった河井継之助の故事を引用し、世界平和と日本の安全の為に是非とも交渉を成立させる覚悟であった事を、友人の反町栄一氏に語ったという。

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 昭和14年(1939年)8月30日、山本五十六中将(当時)は、連合艦隊司令長官に就任した。(←)
山本長官は、アメリカとの戦争には始終反対であったが、仮に戦争となった場合、その職責上最善を尽くさねばならない。そこで、航空機によるハワイ諸島オアフ島真珠湾軍港の攻撃を着想したという。
この経緯に関しては、映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(2011年:日本)にも描かれている。

大東亜戦争開戦直後、山本五十六中将(当時)は、天皇陛下よりのご下賜金で短刀数振を製作、側近の参謀に分け与えた。その一振が展示されている。(→)

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 「集合写真」。(←)
昭和16年(1941年)11月13日〜14日、山口県岩国市の岩国海軍航空隊で行われた開戦直前の作戦会議時に撮影された。前列中央が山本長官。

「海軍軍令部宛の手紙」(→)
昭和17年(1942年)8月7日、ソロモン諸島ガダルカナル島に米軍が上陸、その後約半年に渡って同島を巡る日米の壮絶な戦闘が展開された。展示されている「手紙」は同年11月12日、トラック諸島の戦艦「大和」艦上の山本長官が海軍軍令部に宛てて書いたもの。

山本元帥の遺品 山本元帥の遺品 企画展示のコーナーである。(←)
平成22年(2010年)8月22日、長岡市とハワイ諸島オアフ島のホノルルとの間に、平和・教育合意書が締結され、両市の戦争体験を次世代に伝えていく事が確認された。オアフ島の「戦艦「アリゾナ」記念館」から提供された資料が展示されいる。

展示室の入口の脇に、山本元帥景迎会の活動に関する展示である。(→)
山本元帥の戦死したソロモン諸島ブーゲンビル島は、現在はパプアニューギニアの領土であり、山本元帥景仰会では、現地での慰霊の他にも、親善活動も行っている。

「山本元帥の乗機の残骸」

山本元帥の乗機の残骸 山本元帥の乗機の残骸 山本長官が戦死時に搭乗していた「一式陸上攻撃機」の左主翼の一部が展示されている。(←)
翼には日の丸の塗装が今も遺されている。(→)

昭和18年(1943年)4月、山本長官はニューブリテン島ラバウルに於いて、南東方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)に於ける航空作戦(「い」号作戦)の陣頭指揮を執っていた。そして、作戦がひと段落した18日にブーゲンビル島の前線基地(バラレ・ショートランド・ブイン)を視察する事になった。この時、前線の日本軍部隊に長官の視察予定を暗号電文で打電したが、この暗号を米軍が解読してしまったのである。

山本元帥の乗機の残骸 山本元帥の乗機の残骸 山本長官の前線視察を知った米軍は、山本長官機撃墜を計画、ガダルカナル島に展開する米陸軍航空隊の第339中隊(中隊長:ジョン・ミッチェル少佐)の双発戦闘機「P-38」18機の出撃が決まった。

そして、昭和18年(1943年)4月18日朝、山本長官一行は、第七〇五航空隊の「一式陸上攻撃機」2機に分乗、一番機(323号機)には山本長官以下が、二番機(326号機)には宇垣参謀長以下がそれぞれ搭乗した。06時05分、2機は護衛の「零戦」6機と共に離陸、高度2500mでブインを目指した。ブインまでは約500km、1時間半で到着する予定であった。

山本元帥の乗機の残骸 山本元帥の乗機の残骸 07時30分、長官機以下はバラレまで少し所に差し掛かった。しかしこの時、ミッチェル少佐率いる「P-38」16機(2機は出撃せず)が既に現場空域に到着していた。そして、先に相手を発見したのは米軍機(「P-38」)であった。「P-38」16機は下方から接近、護衛の「零戦」が敵機を発見した時には既に至近に迫っており、攻撃は完全な奇襲となった。ミッチェル少佐以下12機が「零戦」を引き付け、トーマス・G・ランファイアー大尉以下4機が山本長官機と宇垣参謀長機に襲い掛かった。 2機は直ちに急降下し、地面を這うように飛行した。その後、宇垣参謀長機は敵機の射弾を避ける為に大きく右旋回し、離れ離れとなった。

山本元帥の乗機の残骸 山本元帥の乗機の残骸 直後、山本長官機が被弾、右主翼から煙を吐きつつジャングルの中に墜落、大きな黒煙が立ち上った。
山本長官機は、ブーゲンビル島南部モイラ岬から北18kmのジャングルに墜落して炎上、山本長官以下11名全員が戦死した。宇垣参謀長機は海上に出た後に被弾して墜落したが、宇垣参謀長以下3名が助かり、ブーゲンビル島の日本軍部隊に救助された。
山本長官機撃墜の様子は、映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(2011年:日本)にも描かれている。

墜落現場は、山本長官機の残骸が遺されている。垂直尾翼の機体番号の部分が失われている。(→)

山本元帥の乗機の残骸 山本元帥の乗機の残骸 翌19日夕方、救助に向かった日本軍部隊が、山本長官機の残骸を発見、全員の遺体を収容した。この時、山本長官は座席ごと機外に放り出され、軍刀をついたままの姿勢で端座し、生けるが如く息絶えていたという。後に検視が行われ、山本長官は機上で敵機の射弾によって戦死したとされた。
しかし、熱帯の湿気と暑さにもかかわらず、山本長官の遺体のみ腐敗していなかった事や、遺体の銃創(弾の傷)に不可解な点があり、山本長官は墜落後も暫く生存していたのではないかという憶測を呼んだ。これは、現在も充分に解明されていない。

山本長官が実際に座っていた座席である。(←)(→)

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