筑前町立太刀洗平和記念館

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「筑前町立太刀洗平和記念館」

「筑前町立太刀洗平和記念館」の概略および歩き方
展示内容詳細

「筑前町立太刀洗平和記念館」の展示内容

「大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業」

大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 「記念館」に入ると「大刀洗飛行場」の歴史と概要を説明する展示がある。(←)

「大刀洗飛行場」は大正8年(1919年)に陸軍によって建設され、西日本に於ける陸軍の航空拠点として機能していた。

床には、現在の筑前町・大刀洗町の航空写真上に、当時の「大刀洗飛行場」やその関連施設の場所を示した地図が展示されている。 (→)

大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 順路に沿って進むと、九州に於ける航空事業や航空機産業・軍需産業に関する展示が成されている。(←)
九州には、戦前・戦中に於いて、九州飛行機株式会社(福岡市)・大刀洗製作所株式会社(三輪村)・九州兵器株式会社等の航空機産業・軍需産業が発達していた。

九州飛行機株式会社が、昭和20年(1945年)に開発していた海軍の「局地戦闘機『震電』」の模型(1/18)が展示されている。(→)

大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 「震電」は前翼型(エンテ型)と呼ばれる機体形状を採用した意欲的な航空機であった。機体後部に発動機と主翼を装備し、機体前方に武装と小型の翼を装備した独特の機体形状が良く分かる。(←)

大刀洗製作所株式会社(三輪村)では、主として陸軍機の修理・部品の製作を行っていた。

展示されている車輪は、陸軍の「三式戦闘機『飛燕』」の主輪である。ホイールに「大刀洗航空機製作所」の刻印がある。(→)

大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 これらの航空機産業は株式会社渡辺鉄工所(明治19年創業)から発展した。昭和6年(1931年)、渡辺鉄工所は海軍機の製造を開始した。

昭和12年(1937年)、渡辺鉄工所は「大刀洗飛行場」に隣接する三輪村の工場を大刀洗製作所として分離独立させ、陸軍機の修理・部品の製作を開始した。昭和19年(1944年)、大刀洗製作所は大刀洗航空機製作所と改称し、陸軍機の製造も開始したが、昭和20年(1945年)3月31日、米軍の空襲によって壊滅的な被害を受け、終戦後に解散した。

大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 大刀洗飛行場・九州に於ける航空産業 昭和18年(1943年)、渡辺製作所は航空機部門を九州飛行機に、水雷兵器製造部門を九州兵器に改称し、2社に分離した。
九州飛行機では、「局地戦闘機『震電』」の他にも、「哨戒機『東海』」「機上作業練習機『白菊』」等の個性的な機体を開発・製造した。

かつて「大刀洗飛行場」に在機していた航空機が模型と写真で展示されている。(←)

終戦後、これら航空機産業の技術は様々な方面に生かされ、現在に至っている。(→)

「零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃」

零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機(零戦)三二型」である。(←)(→)

展示機は、第二五二海軍航空隊所属機で、昭和18年(1943年)11月、マーシャル諸島タロア島に移動し、そこで何らかの原因によって放棄されていた。その後、昭和53年(1979年)に発見され、昭和58年(1983年)3月に日本に輸送され、40年ぶりの帰還を果たした。

零戦三二型」は343機が生産されたが、現存する機体は世界でこの展示機1機のみである。

零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 発動機は「栄二一型」を装備した。(←)
「栄二一型」は2速加給機(スーパーチャージャー)を備え、それまでの「栄一二型」の940馬力に対して、1130馬力と出力向上を果たし、加給機が2速変速になった事で高高度性能も向上した。

両主翼端を50cmづつ切詰め、翼端の折り畳み機構を廃止する事で空気抵抗が減少し、最高速度・上昇力が向上した。 切詰めた翼端は角型に整形され、他の型の 「零戦」との外形上の大きな相違点となった。(→)

零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 その為、当初は米軍も 「零戦三二型」を、従来の「零戦」(Zeke)とは異なる新型戦闘機と誤認しており、別なコードネーム(Hamp)を与えていた。

展示機の脇には階段が置かれ、上から操縦席内部を見学する事が出来る。(→)
7.7mm機銃は失われているが、計器板・操縦桿(スティック)・方向舵ペダル(フットバー)・スロットル等の様子が良く分かる。 光学照準機は機体復元の際に、アメリカからオークションで入手した本物である。

零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零戦三二型」では、20mm機銃の給弾方式がそれまでの箱型弾倉(ドラム)からベルト給弾になった事で、携行弾数が60発から100発に増加した。 (←)

計器板の複製品(レプリカ)である。(→)

最上段が水平儀(左)・旋回計(右)。
上段が左から排気温計・航空時計・速度計・羅針儀(中央)・昇降度計・油圧計燃圧計・回転計。
下段が左から航路計・燃料切替ノブ・高度計・気筒温度計・油温計・ブースト計。

零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 零式艦上戦闘機三二型・二十粍機銃 「九九式二十粍二号固定機銃」(20mm機銃)である。「九九式二十粍一号固定機銃」よりも銃身が長くなっており、弾丸初速が増加した。「九九式二十粍二号固定機銃」を装備した「零戦」は、両主翼から銃身が突出しているのが外見上の特徴であった。(←)(→)

展示機では両主翼から銃身が突出しているが、実際は 「零戦三二型」には銃身の短い「九九式二十粍一号固定機銃」が装備されていた。復元時の考証の誤りか、展示機が当時、現地で何らかの改修をうけて「九九式二十粍二号固定機銃」を装備していたかであろう。

「栄二一型・個人装備品・被服」

栄二一型・個人装備品・被服 栄二一型・個人装備品・被服 「栄一二型」(陸軍呼称:ハ−25)である。(←)

日本軍の代表的な航空機用発動機(エンジン)として、海軍の 「零戦二一型」「九七式艦上攻撃機」や陸軍の「一式戦闘機『隼』」等に装備された。

「栄一二型」は中島飛行機で開発され、昭和14年(1939年)に制式採用された。星型空冷複列14気筒・総排気量27.9リットル・最高出力940馬力(離昇)、日本を代表する航空機用発動機であった。(→)

栄二一型・個人装備品・被服 栄二一型・個人装備品・被服 隣に展示されている「零戦三二型」には「栄一二型」に加給機を装備して出力を向上させた「栄二一型」(離昇1130馬力)が装備された。

「栄一二型」の排気管は片側7気筒づつが集合排気管に纏められ、発動機後方の機体下部から排気を排出した。(→)
後に開発された「零戦五二型」では、各気筒からの排気を独立した単排気によって後方に噴出させるロケット排気管に改められ、機体の速度向上が図られた。

栄二一型・個人装備品・被服 栄二一型・個人装備品・被服 零戦三二型」「栄一二型」の隣には、個人装備品や被服が展示されている。

左は三式冬用上衣(冬用の上着)、右は短寸冬用上衣(冬用の丈の短い上着)である。いずれも陸軍の兵卒用で、昭和19年(1944年)製作である。(←)

雑嚢・巻脚絆(ゲートル)・水筒(「九四式乙水筒」)である。これらはいずれも陸軍の下士官兵用の官給品であった。(→)

栄二一型・個人装備品・被服 栄二一型・個人装備品・被服 何れも陸軍の官給品で、左から、二種整備作業帽・少年飛行兵用の緒生徒夏用上衣・夏用飛行服上衣である(←)

二種整備作業帽は、車両操縦兵・航空整備兵等が機材を整備する際に着用した。

この飛行服は上下分離型で、陸軍中尉の階級章がついている。(→)

栄二一型・個人装備品・被服 栄二一型・個人装備品・被服 陸軍の各種衛生資材や個人装備品である。左から、巻軸帯(包帯)・石鹸収納箱・三角布・軍人用裁縫箱・大注射器収納箱、後には日本陸軍の鉄帽(ヘルメット)が展示されている。(←)

巻軸帯(包帯)は紙包み入れられ、満州第七四三部隊という部隊名が印刷されている。三角布は明治44年1月製造である。

左上から、軍隊手帳・御賜の煙草入れ・「三十年式銃剣」・円匙(軍用シャベル)(→)

「航空機用装備品・陸軍用装備品」

航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用装備品・陸軍用装備品 陸軍の「九六式航空写真機」である。「九九式軍偵察機」「九七式司令部偵察機」等の搭乗員が使用した。(←)
「九六式航空写真機」は、初の純国産航空機用写真機として歴史的に意義のある写真機であった。昭和8年(1933年)、日本光学工業(現ニコン)で開発が開始され、各メーカーで製造された。展示されている写真機は六桜社(小西六・現コニカ)で製造された。

撮影にはカビネ(キャビネ)乾板を使用し、側面の引き蓋を引いて乾板を交換した。(→)

航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用爆撃照準機である。陸軍の重爆撃機に於いて使用された。(←)

こちらから覗いて爆撃照準を行った。縦横に等間隔の線と、縮尺(スケール)が描かれている。(→)

航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用装備品・陸軍用装備品 「九六式航空写真機」のカビネ(キャビネ)乾板である。乾板のサイズは13cm×18cmあり、乾板12枚を一纏めにして機内に収納した。撮影した写真のサイズは11cm×15.5cmであった。展示されている乾板は六桜社(小西六・現コニカ)で製造された。 (←)

「九九式狙撃眼鏡」である。(→)
「九九式短小銃」の狙撃用照準眼鏡(スコープ)で、倍率4倍・眼鏡視界7°・眼鏡重量590gであった。「九九式短小銃」の尾筒左横にボルトで装着された。

航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用装備品・陸軍用装備品 陸軍の砲隊鏡である。(←)

砲隊鏡とは、野戦時に砲兵が観測所で使用する望遠鏡であった。観測所に砲隊鏡を設置して目標を観測し、指揮下の砲に対して射撃緒元(目標までの距離・方位等)を指示した。砲側では指示された射撃緒元に基づいて砲撃を行い、観測所が着弾を観測、必要に応じて射撃緒元を修正して砲側に指示した。

物陰から観測を行えるように、潜望鏡の様な構造になっており、三脚に乗せて使用した。(→)

航空機用装備品・陸軍用装備品 航空機用装備品・陸軍用装備品 陸軍の地上標定機である。(←)

工兵が測量を行う場合等に使用された。
東京光学で製造された。No10284の刻印があり、製造番号と思われる。

展示されている地上標定機は、破損や錆び等は殆どなく、非常に程度が良い状態で遺されている。(→)

「大刀洗飛行場関連の被服・装備品」

大刀洗飛行場関連の被服・装備品 大刀洗飛行場関連の被服・装備品 順路に従って進むと「大刀洗飛行場」に関する詳細な紹介と、関連する被服・装備品が展示してある。

大正8年(1919年)10月に「大刀洗飛行場」が完成し、11月には航空第四中隊(偵察機10機・人員104名)が所沢から移駐した。12月に航空第四中隊は大隊に昇格し、大正14年(1925年)には飛行第四連隊に昇格・改称し、人員1500名を擁した。それに伴い、「大刀洗飛行場」は、陸軍の西日本に於ける航空拠点として、その規模を拡大していった。(←)

当時の各種無線機が展示されている。(→)

大刀洗飛行場関連の被服・装備品 大刀洗飛行場関連の被服・装備品 左は陸軍航空兵の冬季に於ける完全軍装である。飛行帽・航空眼鏡(ゴーグル)・航空覆面(マスク)・飛行服・救命胴衣・九七式航空兵用縛帯(落下傘バンド)・九三式航空時計・手袋・半長靴は官給品、白絹の襟巻き(マフラー)は私物であった。
右は陸軍の九八式軍衣の完全軍装(夏季)である。右胸には航空隊通信付の航空胸章が付いている。階級章は陸軍一等兵である。全て官給品。(←)
拡張されていく「大刀洗飛行場」。昭和12年(1937年)5月、西部防衛司令部が置かれ、当時の陸軍航空隊の13%にあたる19個中隊(180機)を隷下においた。(→)

大刀洗飛行場関連の被服・装備品 大刀洗飛行場関連の被服・装備品 昭和14年(1939年)12月、「飛行場」の北西側に第五航空教育隊(西部第百部隊)が開隊した。ここでは航空機の整備・修理等を行う航空技術兵の養成が行われた。(←)

昭和15年(1940年)8月、飛行第四戦隊が熊本県(「菊池飛行場」)に移駐し、10月、換わって大刀洗陸軍飛行学校が開校した。大刀洗陸軍飛行学校は西日本の教育飛行隊を束ねる中核的な存在として各地の分校を統括し、終戦までに陸軍の操縦者(パイロット)の2/3を輩出した。

大刀洗飛行場関連の被服・装備品 大刀洗飛行場関連の被服・装備品 昭和18年(1943年)10月、「飛行場」の東側の立石村一ツ木(高射砲第四連隊跡地)に陸軍少年飛行兵第十五期の生徒2000名(甘木生徒隊)が入隊した。やがて戦局が悪化した昭和19年(1944年)末から昭和20年(1945年)にかけて、彼らの多くは特攻隊員として出撃していった。そしてその時、彼らはまだ17,8歳の少年兵だった。

陸軍の冬用飛行服である。(←)

陸軍少年飛行兵募集の手引き。(→)

大刀洗飛行場関連の被服・装備品 大刀洗飛行場関連の被服・装備品 陸軍少年飛行兵制度は昭和8年(1933年)に制定され、満15歳以上17歳未満で入学できたが、非常に高い競争率であった。卒業者は陸軍航空の下士官操縦者(パイロット)の中核を担っていった。

手前は大刀洗陸軍飛行学校の卒業証書、奥は「九三式陸上中間練習機(中練・赤とんぼ)」の羽布・「ユングマン練習機」の尾輪。(←)

各種胸章・操縦微章・階級章・飛行学校身分証明書・特技章である。何れも陸軍の官給品であった。(→)

「戦時下の生活」

戦時下の生活 戦時下の生活 大正7年(1918年)に「大刀洗飛行場」の建設が始まると、商店や旅館が建ち始め、付近は活気を呈するようになった。(←)(→)

また、鉄道網が整備され、当初から付近にあった朝倉軌道(二日市〜甘木)の他にも、大正10年(1921年)には中央軌道株式会社によって軽便鉄道(新町〜航空隊前〜松崎)が敷設され、材料廠(後の大刀洗航空廠)に引込み線が引かれた。昭和14年(1939年)には国鉄甘木線(基山〜甘木)が開通し大刀洗航空廠や大刀洗製作所に引込み線が引かれた。

戦時下の生活 戦時下の生活 戦時下の生活用品が展示されている。

戦時代用品の各種燐寸(マッチ)、箱には戦意高揚のスローガンが書かれている。後ろは配給の子供下着・各種団体の会員標章・戦時絵葉書。(←)

戦時代用品の学校教練用背嚢(ランドセル)。横は陸軍昭五式将校用冬用上衣を模した子供用七五三服であり、当時は高級品であった。手前はお土産の立像。当時の子供達にとって軍人は憧れの存在であった。(→)

戦時下の生活 戦時下の生活 少年誌の付録。昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争開戦から昭和18年(1943年)4月までの戦果が書かれているが、昭和17年(1942年)6月4日のミッドウェー海戦以降は、実際の戦果とは異なっているのが興味深い。(←)

物資の不足と共に生活必需品の多くが配給制になっていった。左から石鹸購入通帳・衣料切符・靴下再生器。(→)
戦時下の廃物利用・節約の奨励は、現在のリサイクルに通じる地球に優しい考え方である。

戦時下の生活 戦時下の生活 国民服や愛国婦人会のタスキ・雑嚢。(←)

戦時絵柄(戦車・航空機等)の子供用着物。(→)

この様な戦時色の強い品物は軍人から強制されたのではなく、一般的な国民の中から起こった一種のファッションであった。それは、国防を担う軍人に対する憧れと期待感から自然発生した。大東亜戦争が、決して一部の指導者や軍人によって指導されていた訳ではなく、国民の総意として一致団結して戦った戦争であった事がわかる。

「大刀洗飛行場への空襲」

大刀洗飛行場への空襲 大刀洗飛行場への空襲 昭和20年(1945年)になると「大刀洗飛行場」とその周辺は米軍の空襲を受けるようになった。(←)
昭和20年(1945年)3月27日と31日の大規模な空襲を含め、計7回の空襲に見舞われた。5月14日には約70機の米軍戦闘機が来襲し、非戦闘員である一般市民に対して機銃掃射を行い、農作業中の農民や子供までもが攻撃を受けた。これは国際法に違反した、虐殺行為であった。

昭和20年(1945年)4月18日、「大刀洗飛行場」上空に米軍の「B-29」の編隊が侵入。(→)

大刀洗飛行場への空襲 大刀洗飛行場への空襲 この時、飛行第四戦隊の回天制空隊の山本三男三郎少尉の操縦する「二式複座戦闘機『屠龍』」が「B-29」(ゴナメーカー)に体当たりし、これを撃墜した。
撃墜された「B-29」は小郡町下町付近に墜落し、米軍搭乗員11名は全員戦死した。山本少尉も落下傘で脱出したが、降下中に米軍戦闘機の機銃掃射を受け、降下後に絶命、壮絶な戦死を遂げた。(←)

撃墜された「B-29」のエンジンの部品。燃焼室の一部であり、バルブガイドやバルブシートリングが見える。(→)

大刀洗飛行場への空襲 大刀洗飛行場への空襲 「大刀洗飛行場」は昭和20年(1945年)3月27日と31日の大規模な空襲で大きな被害を受けた。(←)

27日の空襲では「飛行場」の建物や大刀洗航空廠が壊滅的な被害を受け、31日の空襲では大刀洗航空機製作所や第五教育飛行隊が大きな被害を受け、将兵130名近くが戦死した。

空襲を受ける「大刀洗飛行場」。右側の大刀洗航空機製作所からは煙が立ち昇り、左側の第五航空教育隊には着弾の爆焔がみえる。(→)

大刀洗飛行場への空襲 大刀洗飛行場への空襲 3月27日の空襲では下校中の小学生多数が、米軍機の投下した爆弾によって死亡した。(←)

「遁田の森」では朝倉郡立石国民学校の児童24人が直撃弾を受けて即死、7人が搬送先の病院で死亡した。「三軒屋の森」では三井群立石国民学校の児童3人が即死、15〜16人が重軽傷を受けた。(→)

1発の爆弾でこれだけ多数の児童が犠牲になった事例は、沖縄本島と「大刀洗飛行場」のみであった。

「大刀洗飛行場と特攻隊」

大刀洗飛行場と特攻隊 大刀洗飛行場と特攻隊 大東亜戦争末期、悪化した戦局打開の為、人間もろとも敵艦船に体当たりする特別攻撃(特攻)が行われるようになった。(←)

特攻は、爆装した航空機による体当たりが最も一般的であったが、後には特攻専用の各種兵器が開発され、その一部は実戦に投入された。(→)

特攻は、最終的には組織的に行われるようになり、特攻隊員の多くは実質的に命令によって特攻を行っていたと言っていいだろう。

大刀洗飛行場と特攻隊 大刀洗飛行場と特攻隊 併しながら、出撃していった特攻隊員の勇士に共通していたのは、国や家族や大切な人々を護りたいという想いであろう。彼らの想いを我々は後の世まで伝えていかねばならない。

昭和20年(1945年)5月25日、「大刀洗飛行場」から特攻機4機(「四式重爆撃機『飛龍』」)が出撃した。(←)

内2機は特攻専用の特殊爆弾を搭載した「さくら弾機」であった。(→)

大刀洗飛行場と特攻隊 大刀洗飛行場と特攻隊 この2機の「さくら弾機」は還らず、8名の空中勤務者(搭乗員)が散華した。戦果は不明であった。「記念館」入口には、この時散華した勇士4名のレリーフが飾られている。(←)

「さくら弾機」に搭乗する特攻隊員に配られていた戦闘手引書(マニュアル)。(→)
攻撃方法や攻撃時の注意点が書かれているが、特に攻撃時の注意点に関しては、状況を想定して詳細かつ丁寧な注意が与えられている。また口語体でかかれ、まるで特攻隊員を励ますような文章である。当時の状況と照らして考えると、一種のユーモアさえ感じる文章である。

「九七式戦闘機」

九七式戦闘機 九七式戦闘機 「九七式戦闘機乙型」(キー27乙)である。(←)

「九七式戦闘機」は中島飛行機で開発され、昭和12年(1937年)12月に制式採用された陸軍初の低翼単葉戦闘機であった。固定脚を装備していたものの、軽量化され良好な空力性能を持つ機体によって格闘戦に於いては優秀な性能を誇った。

海軍の「九六式艦上戦闘機」と共に、支那事変やノモンハン事件から大東亜戦争開戦までの期間の代表的な戦闘機であった。(→)

九七式戦闘機 九七式戦闘機 本機は大東亜戦争開戦時(昭和16年12月8日)には、既に旧式化しており、その座を「一式戦闘機『隼』」「二式単座戦闘機『鐘馗』」に譲ったが、その後も中国大陸や日本国内の練習飛行隊などで運用され続けた。(←)

併しながら大東亜戦争末期、戦局の著しい悪化は本機を再び最前線へと呼び戻した。それは戦闘機としてではなく、爆弾を抱いて敵艦に体当たりする特攻機の機材としてであった。(→)

九七式戦闘機 九七式戦闘機 展示されている機体は、世界で唯一現存する「九七式戦闘機」である。(←)

この機体は、福岡市博多湾の水深3mの場所で発見され、平成8年(1996年)9月10日に引上げられた。機体はほぼ原型を保っており、修復が施された。(→)

この機体は、昭和20年(1945年)4月3日、第一〇五振体武隊(陸軍の特攻隊)所属の佐藤亨伍長の操縦によって満州(中国東北部)の公主嶺から大邱(朝鮮半島)に移動した。特攻出撃の為であった。

九七式戦闘機 九七式戦闘機 そこで渡辺利廣少尉に機体が引き渡され、4月14日、鹿児島県「知覧基地」に向かったが、事故の為に博多湾に不時着水し、機体は海没した。渡辺少尉は救出されたが、事故から8日後の4月22日、「知覧基地」から特攻出撃し、 沖縄本島で戦死を遂げた。後日、佐藤伍長も「知覧基地」から特攻出撃したが、奇跡的に生還して一命をとりとめた。

佐藤亨伍長が大刀洗飛行学校で使用した講義ノート(左)と航空手帳(右)。講義ノートからは、熱心に操縦を学んでいた様子が分かる。(←)(→)

九七式戦闘機 九七式戦闘機 この機体が引上げられた際に、燃料槽に残っていた燃料。(←)

「九七式戦闘機」は機内の燃料槽に約530リットル・主翼下左右の増槽(落下タンク)に各133リットルの燃料を搭載した。

展示されている機体の周囲には、「九五式軍刀」や各種装備品(飛行帽・航空覆面・航空眼鏡等)、当時の新聞が展示されている。(→)

「将兵の遺書遺品戦没者の写真」

将兵の遺書遺品戦没者の写真 将兵の遺書遺品戦没者の写真 「九七式戦闘機」の隣には将兵の遺書・遺品が展示されている。(←)

戦地の将兵や出撃を前にした特攻隊員から、家族や大切な人に宛てられた手紙や遺書、数々の遺品が現代に遺され、当時の状況や人々の想いを伝えている。(→)

現代を生きる我々は、この平和な日本に於ける生活が、彼ら犠牲と護国の信念によって成り立っている事を決して忘れてはならない。

将兵の遺書遺品戦没者の写真 将兵の遺書遺品戦没者の写真 決死の想いの込められた寄せ書き。(←)

「記念館」中央は上映ホール(語りの部屋)になっており、「大刀洗飛行場」の歴史に関する15分ほどの短編映画(「大刀洗 1945.3.27」)を観ることが出来る。映画は「飛行場」の歴史や、米軍による空襲の様子を伝え、平和を訴える内容となっている。
上映ホールの入口には、「大刀洗飛行場」に関連して戦没された方々の遺影が展示されている。(→)

将兵の遺書遺品戦没者の写真 将兵の遺書遺品戦没者の写真 昭和20年(1945年)3月27日、「大刀洗飛行場」に対する米軍の空襲が行われ、「遁田の森」「三軒屋の森」では米軍機の投下した爆弾によって下校中の小学生多数が死傷した。特に「遁田の森」では、1発の爆弾で31名の児童が犠牲になった。(←)

昭和20年(1945年)4月18日、山本三男三郎少尉(飛行第四戦隊回天制空隊)の「二式複座戦闘機『屠龍』」に撃墜されて戦死した「B-29」(ゴナメーカー)の米軍搭乗員11名の遺影も展示され、戦没者に対して国籍の区別なく慰霊している。(→)

「零戦等の残骸・回天制空隊」

零戦等の残骸・回天制空隊 零戦等の残骸・回天制空隊 順路に沿って進むと「記念館」の2階に上がる事ができる。2階には企画展示コーナー・図書閲覧コーナー・飛行第四戦隊回天制空隊に関する展示が成されている。

企画展示コーナーでは、現在(2010年)は「零戦五二甲型」の残骸・「九七式戦闘機」のフラップ・その他機種の各種部品等が展示されている。(←)(→)

この残骸は、戦後に鹿児島県の吹上浜と錦江湾から引上げられた。

零戦等の残骸・回天制空隊 零戦等の残骸・回天制空隊 上映ホールの真上には、飛行第四戦隊回天制空隊に関する展示が成されている。(←)
飛行第四戦隊は、昭和15年(1940年)8月に「大刀洗飛行場」から熊本県(「菊池飛行場」)へ移駐した後、昭和17年(1942年)1月に山口県(「小月飛行場」)へ移駐して西日本防空の任に就いた。装備機材は「二式複座戦闘機(二式複戦)『屠龍』」であった。

床には、「二式複戦」の実物大(全長11.47m)のシルエットが赤で描かれている。複座双発の機体はかなり大きく感じる。(→)

零戦等の残骸・回天制空隊 零戦等の残骸・回天制空隊 更に、天井には米軍の「B-29」の実物大(全長30m)の大きさの金網が吊ってある。「二式複戦」より更に大きく、この超重爆に対して迎撃戦を挑んだ日本軍搭乗員の苦戦が伺われる。(←)

昭和20年(1945年)4月18日、飛行第四戦隊回天制空隊の山本三男三郎少尉は、「二式複戦」による体当たりで「B-29」を撃墜したが、自らも壮絶な戦死を遂げた。

2階からは、展示されている「零戦三二型」「九七式戦闘機」を見ることが出来る。(→)

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