坦克博物館(タンク博物館)

北京

北京の戦跡
大東亜戦争における北京の歴史
現地への行き方と現地交通情報(旅行情報)

「坦克博物館(タンク博物館) 」

「坦克博物館(タンク博物館) 」の概略および歩き方
展示内容詳細

「坦克博物館(タンク博物館) 」の展示内容

「博物館外観」

博物館外観 博物館外観 博物館に入って正面の建物は資料館となっている。中国軍の戦車部隊の歴史が展示されている。手前は「96式戦車」である。1996年に中国陸軍に制式採用され、旧式化した「59式戦車」や「69/79式戦車」を補う形で約1500両が生産された。(←)

装甲兵司令員(戦車部隊司令官)の像である。日本人が見ると、司令官が「はー」とため息をついているようにしか見えないが、これは漢字の「八一」である。中国軍は昭和2年(1927年)8月1日の南昌起義を建軍記念日としており、「八一」はこの記念日を表している。(→)

博物館外観 博物館外観 資料館の左手側に回り込むと、「装甲車両陳列館」が見えてくる。(←)

陳列館には戦車搬入用のシャッターが並んでいる。入口方面から見て最も奥側に日本軍の「九四式軽装甲車」と「九七式中戦車」が展示されている。(→)

「九四式軽装甲車(94式軽装甲車)」

九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 昭和5年(1930年)頃、世界恐慌に見舞われた各国は経済性の高い戦闘車両を開発した。日本も乗員2名、全備重量3.45tの「九四式軽装甲車」を開発した。(←)

装甲は小銃弾に耐えうる程度で、武装は機関銃を1挺搭載する程度であった。 「九七式中戦車」と比べても二まわりほど小さい。(→)

九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 主武装は口径6.5mmの「九一式車載軽機関銃」1挺か、口径7.7mmの「九七式車載重機関銃」1挺であった。なお、砲塔前部の装甲は12mmである。(←)

砲塔側面のピストルポートである。車体が敵兵に取り付かれてしまったときに、この穴から拳銃が撃てるようになっていた。通常時はシャッター式の蓋で外部と遮断されていた。また、無線装備はなく、ここから小旗を出して連絡を取っていた。(→)

九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 後面にもピストルポートが設置されている。後面の装甲は砲塔部10mm、車体部8mmである。(←)

4気筒ガソリンエンジンを搭載し、最大出力は35馬力であった。現代の軽自動車の車重が800kg、エンジンの最大出力が50馬力程度であることを考えると、操縦感覚としてはパワー不足気味であったのではないかと思われる。(→)

九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 左後部にマフラーが取り付けられている。(←)

本車の履帯(キャタピラ)は、履帯外側にガイド用の爪がある。この「外側ガイド式」は急旋回時に外れやすかったため、本車以降の日本軍装軌式(キャタピラ)車両には爪が内側にある「内側ガイド式)に改められた。(→)

九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 九四式軽装甲車(94式軽装甲車) 本車は懸架装置(サスペンション)の形式が特徴的である。「ハ」の字型のアームでつながった転輪2個が一組となっており、アームはシーソーのように動く。この動きは転輪の上の横置きコイル・スプリングに伝えられ、衝撃を吸収する仕組みとなっていた。このこの懸架方式は、その後の日本軍装軌式(キャタピラ)車両の代表的懸架方式となり、後の「九五式軽戦車」「九七式中戦車」などにも採用された。 (←)

付近には当時の本車の写真が展示されている。(→)

「九七式中戦車(97式中戦車)」

九七式中戦車(97式中戦車) 九七式中戦車(97式中戦車) 大東亜戦争全期間を通して使用された日本陸軍の「九七式中戦車」である。緒戦の「南方作戦」においては、その機動力を生かして「マレー半島攻略」に活躍し、連合軍を圧倒した。(←)

戦争後期、各国が次々と新型戦車を開発していくなか、国力に余裕のなくなってきた日本は後継の「一式中戦車」などを量産することができなかった。結果、本車は終戦まで陸軍の主力戦車として各国の新型戦車と苦闘を続けた。(→)

九七式中戦車(97式中戦車) 九七式中戦車(97式中戦車) 主砲は短砲身の「九七式五十七粍戦車砲」である。これは敵機銃座や掩蔽壕の破壊に適する榴弾を発射するものであり、対戦車用というよりは歩兵支援のためのものであった。また、砲塔左下の車体前面には「九七式車載重機関銃」を装備していた。(←)

本車の初陣は昭和14年(1939年)のノモンハン事件であった。この頃のソ連軍戦車はT-34の登場前であり、「BT-5」や「T-26軽戦車」であった。装甲は本車の方が厚かったが、榴弾用の短砲身ではソ連戦車の装甲を貫通できなかった。(→)

九七式中戦車(97式中戦車) 九七式中戦車(97式中戦車) この戦訓に基づき、「九七式五十七粍戦車砲」よりも貫徹力が高い「一式四七粍戦車砲」に換装した「九七式中戦車改」が開発された。車体もそれにともなって設計し直されたが、この車両は新タイプの車両に旧タイプの砲塔が乗った形式となっている。(←)

当時各国の戦車はガソリンエンジンが主流であったが、本車は空冷ディーゼルエンジンを装備していた。ディーゼルエンジンは重量に対する出力が小さい一方、被弾時の火災の危険性が少なかった。マフラー部分である。(→)

九七式中戦車(97式中戦車) 九七式中戦車(97式中戦車) 九四式軽装甲車」の「外側ガイド式」が外れやすかった経験を生かし、本車では爪が内側にある「内側ガイド式」となっている。速度は時速38km、航続距離は210kmであった。(←)

付近の展示パネルには三菱重工相模原工場で生産される本車の写真が載っている。(→)

「中国軍戦車」

中国軍戦車 中国軍戦車 資料館裏手には中国軍の戦車を中心に並べられている。(←)

「CY-100自走砲」であり、1940年代のソ連で開発された。対戦車用として使われたほか、戦車部隊の火力支援として使われた。中国軍は1955年からこの車両を導入した。最大射程は300kmである。(→)

中国軍戦車 中国軍戦車 「59B中戦車」である。ソ連の技術指導のもと、1959年にT-54のライセンス生産として中国国内で生産された第1世代の主力戦車である。(←)

「T-34戦車回収車」である。戦車はその重量の重さゆえに戦闘損傷のほか、機械故障や軟弱な地盤動けなくなることが多かった。戦車回収車とは、それらの戦車を回収して修理後に戦線に復帰させる役割を持つ。「T-34」の車体をベースとして作られた。(→)

「M3A1軽戦車(スチュアート)」

M3A1軽戦車(スチュアート) M3A1軽戦車(スチュアート) 米軍の「M3A1軽戦車(スチュアート)」である。昭和16年(1941年)3月から生産開始された。(←)

本車は昭和16年(1941年)12月のフィリピン攻略戦で日本軍の 「九五式軽戦車」と日米初の戦車戦を行った。このとき、スチュアートの正面装甲は 「九五式軽戦車」の37mm砲を全て跳ね返した。(→)

M3A1軽戦車(スチュアート) M3A1軽戦車(スチュアート) 本車は「M3軽戦車」の初期型であり、後期型の「M3A3軽戦車」は燃料タンクや砲弾携行数が増加された。(←)

スチュアートは欧州戦線でも投入されたが、ドイツ戦車と戦って大損害を出した。また、太平洋戦線では日本軍戦車には優勢であったが、後半は「一式機動速射砲(1式機動速射砲)」によって装甲を撃ち抜かれるようになった。「M4中戦車(シャーマン)」が供給されるようになると、「M3軽戦車(スチュアート)」は前線から引き上げられ、偵察任務や予備兵器に回された。

「LVT(A)-4」

LVT(A)-4 LVT(A)-4 米軍の水陸両用トラクター「LVT(A)-4」である。上陸用舟艇が航行できる沖合いから兵士を搭載して海岸まで浅瀬を渡るためのものである。重量物の揚陸にも用いられた。(←)

初期型の「LVT」は機関銃2門を搭載するのみであったが、「LVT(A)-4」は「M8自走榴弾砲」の75mm砲と砲塔を搭載していた。(→)

「T-34/85」

T-34/85 T-34/85 ソ連軍戦車の「T-34/85」である。「85」は昭和18年(1943年)12月試作完成した85mm戦車砲搭載型であることを示す。当時としては強力な砲であった。(←)

履帯(キャタピラ)は幅広で接地圧が低い。泥や雪の環境が多いソ連国内に適した設計である。欧州戦線前半ではドイツ戦車に押されていたが、昭和16年(1941年)から昭和17年(1942年)の冬に、ドイツ戦車の動けない環境でも移動できる特徴を生かして優位に立った。(→)

T-34/85 T-34/85 「T-34」の特徴は、避弾経始による高い防御力を誇る傾斜装甲と、被弾したときに炎上しにくく、燃費の面でも有利な高性能アルミ合金製ディーゼルエンジンである。また、設計が徹底的に簡略化され、生産性が高かったことが兵器としての評価を高めた。昭和20年(1945年)末までに5,7000両以上の「T-34」が生産された。戦後も近代化改修されて生産は続き、多くの国に輸出された。合わせて84,000両以上が生産されたと推定されている。(←)

車体前部のパネルが開いており、中を見ることができる。(→)

戦跡の歩き方TOP」へ戻る>> 「大東亜戦争遺跡」へ戻る>> 「中国」へ戻る>> 「北京」へ戻る>> 「坦克博物館(タンク博物館) 」へ戻る
                  >>「大東亜戦争遺跡(博物館・資料館)」へ戻る

Copyright(C)悠久の沙羅双樹
inserted by FC2 system