シンガポール攻略(昭和17年2月1日〜15日)

シンガポール攻略(昭和17年2月1日〜15日)

英印軍のシンガポール防衛体制
英印軍の兵力

シンガポール守備兵力 約85000名(戦闘員約70000名)

インド第三軍(戦力化可能はインド1個大隊)
     第9インド師団の残部(戦力化可能はインド第15旅団の1個大隊規模)
     第11インド師団
オーストラリア第8師団(戦力化可能は歩兵4個大隊、機関銃2個中隊)
     オーストラリア歩兵第22旅団
     オーストラリア歩兵第27旅団
英第18師団(中近東方面から1月31日到着、砂漠戦の訓練のみ、長期の海上輸送により休養必要)
     第53旅団(H・スミス少将)
        第135連隊・第85対戦車連隊・第6対空砲中隊・第35対空砲中隊
マレー第1師団
     マレー第1旅団
     マレー第2旅団

ハリケーン戦闘機51機(パイロット24名、2月5日までに空襲により大部分破壊)

火砲 合計600門以上
     要塞砲 15インチ砲:5門 9.2インチ砲:6門 6インチ砲:16門
     高射砲 150門
     その他(75ミリ歩平砲・25ポンド山砲・4.5センチ曲射砲・対戦車砲・野砲)

守備配置
   シンガポール北東部:英第18師団・インド第11師団
   シンガポール北西部:豪第8師団・インド第44旅団

日本軍のシンガポール攻略準備(昭和17年2月3日〜8日)

昭和17年1月31日、クルアンの第二五軍司令部(山下奉文中将)は各師団長(第五師団・近衛師団・第十八師団)にを示達した。山下中将は、正面突破よる正攻法によってシンガポール攻略を実施したいと考えていた。併しながら、第二五軍は後続の第十八師団が到着しつつあったものの、主力の第五師団・近衛師団の一部は既に「マレー半島攻略」で疲れ果てており、また、上陸支援に必要な砲弾の輸送も十分ではなかった。更に、シンガポール攻略後、近衛師団はスマトラ方面(蘭印)、第十八師団はビルマ方面への転用が予定されており、第二五軍の航空支援兵力である陸軍第三飛行集団は2月14日からパレンバン(蘭印)攻撃への転用が決定していた。

そこで、第二五軍の上陸準備は慎重を極め、「シンガポール攻略計画」では上陸準備期間は行動・企図の隠蔽に努めて、上陸地点を英軍に悟られないようにする事が強調された。シンガポール北西岸へ主力(第五師団・第十八師団)が上陸を予定していた為、シンガポール北西岸では部隊の行動を秘匿し、シンガポール北東岸では英軍の注意をひきつける陽動を実施する事になった。

日本軍の兵力

シンガポール攻略に於ける日本軍の参加兵力は以下の通りであった。

   第二五軍
      第五師団
      第十八師団(シンガポール攻撃直前に全兵力が揃う)
      近衛師団(第三連隊は第三大隊以外未着、1月18日にジョホールバル到着)
      野戦重砲兵第三連隊(1月下旬到着)
        火砲 440門(大、中口径 168門)
        砲弾 各砲1500〜2000発を用意、平均2/3を集積可能
            予定消費数(各砲) @上陸準備期間:300発 A渡河準備:800発 Bブキテマ高地奪取:500発 Cその後の戦闘:300発
      上陸用舟艇:折畳舟艇300・門橋32・小発30         
      (フィリピン方面第十四軍に増援)
      24センチ榴弾砲一個連隊(野戦重砲兵第十八連隊?)、独立山砲兵第三連隊  
   第三飛行集団(一部は2月14日からのパレンバン攻撃に転用)
         戦闘機・爆撃機・偵察機 162機

日本軍のシンガポール攻略準備(昭和17年2月3日〜8日)

昭和17年2月3日、日本軍の航空隊・砲兵がシンガポールの飛行場・主要施設への砲爆撃を開始する。ジョホールバルの砲兵隊はシンガポール島北部と北西部を守備する英軍に対し上陸前の準備砲撃開始。

2月7日夜、近衛師団の小部隊400人がジョホール水道東部のウビン島に上陸。8日、近衛師団の砲兵52門(野砲36門・連隊砲12・重砲4門)がウビン島対岸の英軍チャンギー要塞への砲撃を開始した。これら一連の動きは英軍の注意をシンガポール北東岸にひきつける為の陽動であった。

シンガポールでのでの戦闘推移(昭和17年2月9日〜15日)
日本軍の上陸(昭和17年2月9日〜11日)

昭和19年6月15日(米軍上陸1日目・日本軍第1回水際逆襲) 昭和17年2月9日0時(現地8日22時30分)、ジョホール水道北側高地の日本軍砲兵(440門)が砲撃を開始。日本軍の第一次上陸部隊4000人(第五師団・第十八師団)が舟艇300隻に分乗し、対岸のシンガポール北西部サリンブン海岸を目指して発進した。9日0時10分(現地8日22時40分)、日本軍の第一次上陸部隊が上陸に成功。直ちに内陸への進撃を開始した。シンガポール北西部は豪第22旅団(豪第8師団)が守備しており、日本軍上陸地点には豪第22旅団の2個大隊(第18連隊第2大隊・第19連隊第2大隊)が展開していたが、9日1時30分(現地9日0時)、これら2個大隊はテンガー飛行場まで後退する。9日朝までに第五師団・第十八師団は三次に渡って揚陸を実施、テンガー飛行場を占領した。豪第22旅団はクランジ・ジュロン戦線まで後退する。

2月9日夜、近衛師団が豪第27旅団の守備するシンガポール島北西部クランジ海岸に上陸した。豪軍は重油をジョホール水道に流し、近衛師団は混乱に陥った。防衛戦は成功していたが、「やむを得ない場合のみ後退せよ」という英軍パーシバル司令官の命令を誤って解釈した豪第27旅団はクランジから撤退し、英軍はクランジ・ジュロン戦線を突破される。日本軍はクランジを占領したことにより、戦車の揚陸が可能になった。日本軍戦車がブキパンジャンの英軍の防御陣地を突破した。

島内での戦闘(昭和17年2月12日〜15)

2月10日、第五師団が北側、第十八師団が南側からシンガポール島中央部ブキテマ高地に進出、ブキテマ高地を守備するインド第15旅団・豪第22旅団と激戦が展開された。10日夜、第五師団・第十八師団は夜襲によってブキテマ高地に突入、日本軍・英軍入り乱れての激戦が終日繰り返された。英軍は北部の英第18師団の2個大隊(第5ベッドフォードシャー大隊・第5ハートフォードシャー大隊)をブキテマ高地に増援。インド第44旅団、第1マレー旅団と共同してブキテマ高地東南から日本軍に反撃を実施した。戦線はマンダイ、ブキパジャン付近まで移動し、11日夜、遂に第五師団・第十八師団がブキテマ高地を占領した。インド第15旅団・豪第22旅団は多数の死傷者を出して撤退した。更に、ブキテマ高地北側から前進した近衛師団がピアス・マクリッチー両貯水池(ブキテマ高地東方)に迫っていた。

英印軍の降伏(昭和17年2月15日)

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